平川克美

経済成長という病 (講談社現代新書)

経済成長という病 (講談社現代新書)

序章

「私たちはどこかで時代の一端を担ぎ、その行方に同意してきた加担者であったはずである」

→「・・・この記憶には何か重要なことが欠落している。欠落しているのは私であり、あなたである。」

→「歴史の加担者であった私たちについて理解を深めることである。」

→「わかるとは、事実の因果関係を知ることだけでなく、その因果に自分が果たした役割を認識することだ」

→「私たちは自らの「世界」に果たした役割と、「世界」が私たちに与えた北影響の関係についてどれだけ頓着してきただろうか」

→「成長の光景から目を転じて、退化の光景を眺めなおしてみる価値はあるだろう」

第一章

最初から信用などなかった。

→この国には「基底」がないということであった。「基底」とは、ひとつの社会が長い歴史のなかで培ってきた、人間が生きていくための温床のようなものだ。

擬制は、自らそれが擬制であることを知り、もっと控えめであるべきなのだ。

→十年も前から、いやもっとずっと以前から、擬制でしかない価値を集団的に正義と読み替えたことによって、この擬制の崩壊は始まっていたというべきだろう。

→経済成長こそすべての病を癒すという擬制

→規矩=儲けようが失おうが、リスクは自分がまいた種であり、その儲けや損失など日々の生活の実感からみればzぶくのようなものにすぎないということを引き受けるということ。

→翻って素人であるということは、自ら知悉している日常的でありふれた生活の中に価値観を見出し、その価値観は玄人が跋扈する世界の価値観と等価であるということをよく知っているということだ。

→「軍人はいつも過去の戦争を戦っている」の喩え通り、私たちの思考の基底には、すでに経験済みの事象が共同的な記憶として堆積しており、私たちはその基地の堆積物をさまざまに組み替えながら現在の世界観というものを無意識的に構成してしまうのである。

→つまり、人間というものは必ず、慣れ親しんだ思考の惰性に囚われており、自らが経験してきたことが思考のバイアスになるということが見えないのである。