悪の教典

悪の教典 上

悪の教典 上

悪の教典 下

悪の教典 下

読了です。
題名がなぜ、悪の「教典」なのか。

「教典」を辞書で調べると
1.仏の教え、信仰の規範が記された書物
2.省略
3.教育上、または信仰上のよりどころとなる書物

このテクストを、例えば「教育上のよりどころ」としてみたらどうだろう。

『ノルウェイの森』特報

「愛する者を失った悲しみをいやすことはできない。
悲しみを悲しみぬいて、そこから何かを学び取るしかない」

村上春樹の小説に通底する思想を端的に言い表した名言だと思います。

悲しみを誰かに聴いてもらいたいとか、悲しみを誰かに受け止めてもらおうとか、それ自体は良くも悪くも無い考え方だとは思うけど、「いやしてもらおう」なんていうのは、嘘でしかない。

悲しみは、癒されも解決されもしない。それは、ただ塵のように降り積もって、次の悲しみや楽しみが覆い隠すことでしか解決しない。

悲しみの重さに耐えられること。
悲しみの重さに耐える勇気を持つこと。

街場のメディア論

「僕が何かを書く。それを読んだ人の中に、「これは自分宛ての贈り物」だと思ってしまった人がいる。返礼をしなければならないと思ってしまった人がいる」という箇所を読んで、泣きました。

ジャック・デリダは正しくそれを「誤配」と呼びました。

「私は贈与を受けた」と思いなす能力、それは言い換えれば、疎遠であり不毛であるとみなされる環境から、それにもかかわらず自分にとって有用なものを先駆的に直感し、拾い上げる能力のことです。言い換えれば疎遠な環境と親しみ深い関係を取り結ぶ力のことです」

環境を変えることは難しい。ならば、その環境の中で、いかに生きるか、だと思いました。

『母なる証明』

映画、『母なる証明』を見る。

村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の意味が、初めて分かった気がする。

羊男は「踊り続けるんだ」と「僕」に繰り返し語り続けていた。人が死に、他人からの悪意にさらされても、踊り続ける必要があるんだ、と。

母なる証明』において、最後の場面で母は「踊る」。結局のところ、息子が殺人を犯したのかどうか分からない。観客が確かに分かっていることと言えば、「母が殺人を犯したこと」「母が息子を殺そうとしたこと」だけである。

最後の場面は誠に衝撃的だが、そこで母が行ったことは、「踊る」こと。バスの中で「踊る」。そこまで映画を観続けてきた観客はしかし、その行動を支持せざるを得ない。

「息子を殺そうとした過去がある」「息子が殺した証拠を隠滅するために、人を殺した」「自らが殺人を犯した現場から、息子が証拠を発見し、母に渡した」。

ここからは私自身の憶測にすぎないが、息子はすべて知っていて、母は上手に使われていただけだということ。それを、母も知っていながらしかし、「母であること」を証明するために行動するしかなかった。

母は強く、そして愛おしい。

母は踊り続ける。踊り続けることでしか、母であることを証明することはできない。母は、息子が何才になっても「母」であり、「母」であることを辞めない。「母なる証明」とは、「母」は息子のために踊り続ける=「母」という役割を演じ続ける存在だ、ということであり、それは、時に息子からの悪意を受けても揺るがないほど強靭な、一つの思想と化しているということだ。

街をぶらぶら歩き、「はっと」して気付いたことではあるけれど、それはそれはとても貴重な映画体験でした。