『母なる証明』

映画、『母なる証明』を見る。

村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の意味が、初めて分かった気がする。

羊男は「踊り続けるんだ」と「僕」に繰り返し語り続けていた。人が死に、他人からの悪意にさらされても、踊り続ける必要があるんだ、と。

母なる証明』において、最後の場面で母は「踊る」。結局のところ、息子が殺人を犯したのかどうか分からない。観客が確かに分かっていることと言えば、「母が殺人を犯したこと」「母が息子を殺そうとしたこと」だけである。

最後の場面は誠に衝撃的だが、そこで母が行ったことは、「踊る」こと。バスの中で「踊る」。そこまで映画を観続けてきた観客はしかし、その行動を支持せざるを得ない。

「息子を殺そうとした過去がある」「息子が殺した証拠を隠滅するために、人を殺した」「自らが殺人を犯した現場から、息子が証拠を発見し、母に渡した」。

ここからは私自身の憶測にすぎないが、息子はすべて知っていて、母は上手に使われていただけだということ。それを、母も知っていながらしかし、「母であること」を証明するために行動するしかなかった。

母は強く、そして愛おしい。

母は踊り続ける。踊り続けることでしか、母であることを証明することはできない。母は、息子が何才になっても「母」であり、「母」であることを辞めない。「母なる証明」とは、「母」は息子のために踊り続ける=「母」という役割を演じ続ける存在だ、ということであり、それは、時に息子からの悪意を受けても揺るがないほど強靭な、一つの思想と化しているということだ。

街をぶらぶら歩き、「はっと」して気付いたことではあるけれど、それはそれはとても貴重な映画体験でした。