8月1日 朝日新聞における村上春樹の記事に対して

 8月1日の朝日新聞文化欄29面に、

村上春樹現象 中国のブーム、実証的に」という記事が掲載された。


 中国での《村上春樹現象》を《実証的にリポート》したのは、

筑波大学大学院図書館情報メディア研究科で学ぶ中国人留学生、王海藍さん》。

王さんは、《中国の5つの大学で学生346人を対象に》アンケートをとり、

《中国各地の図書館や書店に取材》し、《足で稼いだ論文》を書き上げた。

それゆえ、《実証的な》レポートになっていると言う。


 ところで、これって、朝日新聞の文化欄で取り上げるほどの記事だろうか?

確かに、《実証性》という点では買うべきところはある気がする。

けれど、記事の内容自体は、村上春樹研究をするものにとっては、「常識的」

といえる範疇に属している。

 例えば王さんの以下の発言。

 《作中に描かれた都市の風景に魅了され、漂う寂寥感と喪失感に共鳴してきた。

 村上の小説は中国の若者が抱えている心の空白を埋めてくれる。高度経済成長下

 の都会で豊かな消費文化を享受していながら、癒しようのない精神的な飢餓感を》

 
 最近朝日新聞社から『村上春樹のなかの中国』を出版した藤井省三は、

『A Wild Haruki Chase 世界は村上春樹をどう読むか』において、中国を中心とする

東アジアで村上文学が読まれる理由を、大きく二つに分けて論じている。

 まず一つ目。

「経済成長にともない急速に普及した都市消費文化のマニュアル」としての側面。

経済成長の結果、《現在あるいは近い将来に実現されるであろう、豊かな生活の

モデルを村上春樹に見ている》という。

 次に二つ目。

民主化運動後の虚脱感あるいは挫折感に基づく共感」という側面。

アメリカングローバリゼーションという広い文脈で捉えるならば、経済成長による

熱狂がひと段落下後に来る「虚脱感あるいは挫折感」を村上文学が上手に表象している

からだという。


 朝日の記事で王さんが語っているのは、二つ目の理由だろう。

 朝日の記事は、こう結ばれている。

《都市文学としての村上作品は、中国の農村部や少数民族の間でどう読まれているのか。

それが王さんの次の課題になる》

 藤井の分析によれば、おそらくこうなるだろう。

 つまり、「マニュアル」として村上作品が読まれている、と。

 もちろんこれは、なんら「実証的」ではない。

 ただ、今回朝日に掲載された記事ぐらいなら、すでにさまざまな分析がなされているはずだ。

 藤井の論文は、「実証的」ではないのだろうか?


村上春樹のなかの中国 (朝日選書 826)

村上春樹のなかの中国 (朝日選書 826)

世界は村上春樹をどう読むか

世界は村上春樹をどう読むか


 (付記)

 今年の村上研究の注目は、

なんといっても内田樹先生と石原千秋先生による書き下ろしだろう。

石原先生は現在早稲田大学で、村上春樹の授業を行っている。

幸運にも私は、石原先生の講義を聴くことが出来た。

その授業から受けた知的刺激は、いまだに衝撃となって私のなかに残っている。

 大教室での授業の良いところは、

周囲の人間の知的興奮がこちらにも伝わってくることだろう。

あの授業を受けているときの早稲田大学生は、普段の「馬鹿な」早大生と違って、

貪欲に学問をしようという熱気に溢れていた、と信じたい。