chihiro onitsuka
一度テレビに出たきり、もう姿を現さなくなってしまった。
あのテレビ出演は間違えだったのだろうか?
あの『流星群』を聴いて、失望しなかったファンはいなかったと思う。
鬼束ちひろ自身も、それを感じ取ったはずだ。
だから、まだ本格的に活動するには早いと判断したのだと思う。
ただ、私が鬼束に求めているのは、もちろん歌もそうなのだが、
絶望の中を一人孤独に歩む求道者のような姿なのだ。
「孤独に歩め、悪をなさず、求める者は少なく、砂漠の中の、象のように」
テレビの中の鬼束は「死んでいた」。
それが故に、私は鬼束の中に死に神を見た。
彼女は「神」ではない。「死に神」だ。
幸福を運んでくれる「死に神」だ。
世の中には、進んで不幸を受け入れるように生きている人がいる。
私の生きてきた道も、「どうして?」と思わざるを得ないほど、
困難と苦難の道のりだった。
端から見ると、そこからなんの教訓も利益も得られない、
ただただ苦痛に満ちた旅だった。
人はそれを「愚か」だと言って笑うだろうか?
「神」がもし存在するなら、こんな人生を人間に許すとは思えない。
ただ、「死に神」だったら、もしかすると、こんな人生を、
人間に与える気がする。
けだし「死に神」とは「詩に神」であり、「詩」を紡ぐ「神」であって、
鬼束ちひろは、「愚か」な人間に「詩」を紡ぐ「神」なのであった。