郵便配達人
言語について考える際、「宛先」のことを抜きにすることは
できない。それは、書物においても同様である。
書物には、「書名」と「著者名」が書かれているのに、
「宛名」が書かれていない。<当たり前じゃないか>と言われ
そうだが、これは不思議なことだ。
例えば手紙やメールには、かならず「宛名」がある。
「件名」が空欄でも、誰に送るのかが記されていない
手紙やメールは存在しない。
ところが、書物には「書名(件名)」も「書き手の名前」も
書かれているのに、「宛名(=誰に差し出しているのか)」
が書かれていない。つまり、「誰かに向けて」書かれているのに、
「宛名」が必要とされていないのが、「書物」なのだ。
こんなことを考えたのも、石原千秋著『未来形の読書術』
を読んだからだ。この書物は、「未来形」というタイトルに
全てが集約されている。
どういうことかと言えば、書物に「宛名」が無いのは、
書物の本来の役割が、「現在形」の<私>を満足させるだけで
終わってしまうような「消耗品」ではなく、
読者の「未来」を劇的に変えてしまうぐらいの影響力を持っている
からではないだろうか?
「読む前」と「読んだ後」の読者を比較したとき、
「読んだ後」の読者を想定して書かれているものこそ、
「未来形」の読書に相応しい読者として認めたい。