とは何だったのか

“ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007 (PHP新書)

“ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007 (PHP新書)

「はじめに」と「おわりに」がいい。

  偉大な思想の面白さとは、今まで当たり前のことと信じていた自分の世界が、突如 として不安定な水面のように揺らめきながら崩れ去る姿を目にする瞬間の、残酷なま での快楽にあるかもしれないのだ。(16p)


  かけがいのないアンティゴネの死を悼みつつ、それでも刹那の輝きの痕跡は残り、
 「また再び」と求めつづけて、人は生を超えていくのだろう。(212p)


 こうした信念に貫かれた本書は、斎藤環に「本書の主張には賛成できない」といわれ

るのも致し方ないと思われるほど、危険に満ちている。

 とりわけそれは、第3章において顕著だ。気安くトラウマについて語る昨今の風潮に

対して憤る著者の態度は、「オヤジの説教」以外のなにものでもないと思われる。

「本当のトラウマ」とは何を想定していっているのか?お前に「本当のトラウマ」が

分かるのか?そうつっこみたくなる読者も多いだろう。

 加えて、あくまで「哲学」「思想」の力を信じよう(信じたい)という「頑固さ」も、

時代に迎合した「知識人」に対するアンチテーゼとしてはすがすがしいものを感じる

ものの、問題は、著者がいつまでこうした姿勢を維持できるかだろう。<浅田・柄谷・

東>と聞いて、それが誰だか分かる日本人なんて、もはや天然記念物並みの存在である

ことぐらい、著者には分かっているはずだ。

 現実には、そんな「ビッグネーム」を知らなくたって、著者よりよほど「立派に」

世のため人のために働いている人間なんて山ほどいる。『趣味は読書』でも読んで、

自分の立場をわきまえてから、お説教なりなんなりするべきではないか?