伝わらないのはなぜか

① 伝えるための方法論は、巷にごまんと溢れている。

 その一つひとつを手にとって眺めていると、ある前提を共有していることに気づく。

 それは、情報を発する側が、受け手に対して、その情報を当然受け入れるはずだ(べきだ)

と考えていることである。情報を発する「私」は「価値ある(権威ある)」存在である、あなた

たちは黙ってそれに従っていればいいんだ、というわけだ。

 逆に言えばこういうことだ。「私」が発した情報が、あなたにとって有益であろうと無益

であろうと、「私」には関係ない。この情報を使おうが使わなかろうが「私」には関係ない。

もしあなたがこの情報から、なにかひきだせるのであれば、それはそれで結構だ。反対に、

何も引き出せなかったとしても、「私」の責任ではない。なぜなら、「私」が発した情報には、

努力して引き出そうとすれば、無限の可能性が秘められているのだから、と。

 
② スピリチュアルブームも、この延長線上にある。

 占い師(霊能者・・・)のご託宣を信じるも信じないも、あなたの勝手だ。

ただし本当に信じた者には、幸福が訪れるだろう。

 こうした「ロジック」で、私たちはスピリチュアルに「はめられて」いく。

「先に豊かになった者から、豊かになりなさい」にならえば、

「先に信じた者から、幸福になりなさい」とでも言えばいいだろうか?

 信じた先に幸福が待っているかどうか分からない。けれど、それがかなったならば、

あなたが本当に「私」の言葉を信じたからであり、あなたが正しかったからだ。


③ 伝えるには、こうして相互の信頼が前提されている。

いくら「正しい」こと、「もっともなこと」をいっても、その伝える形がどうであれ、

それを発した人が信頼されていなければ、全部無視されてしまう。

これを防ぐには、自分が信頼するに足る人間であることを認めさせなければならない。

つまり、相手に「なめられて」はならないのだ。

 ここで告白すれば、私は明らかに「なめられて」いる。

アルバイトが既に力を持った職場にあって、新入社員など、いてもいなくても「かゆくない」

人材に過ぎない。アルバイトは、自らのキャリアに基づく信念のもと、自分が正しいと思った

ことをやる。しかし考えてみよう、ここで言う「正しさ」とはなんだろうか?


④ 社会人になって学んだことのひとつに、私が考えている「正しさ」など、

社会にとっては何の価値もない(意味もない)ことだということだ。学生時代には生意気にも、

自分こそが「正しく」て、社会(制度)の方が間違っていると、漠然と考えていたものだが、

それが笑ってしまうほど間違っていることに気づいたのは、もっとずっと後になってからの

ことだった。

 アルバイト達は、自分の「正しさ」という「論理」に従って行動している。一方社員は、

会社という「論理」に従って行動している。特に私のような教育業界に従事する者は、

中途半端に誰もが「受験」を経験しているため、その経験をもとに「正しさ」を語ってしま

うことにもなりかねない。ちなみに、その「正しさ」は、その人の人生そのもの(受験を

くぐりぬけたという誇り)なので、それを否定するのは至難の業なのである。

 こうして私は、ある難しさの中に入っていく。

 彼らの「正しさ」を、どう扱えばいいのか?