未来

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 『フューチャリスト宣言』読了。

 やっと明るい未来を描いた書物が出てきたという気がする。

 現在23歳の私にとって、90年代と00年代前半は、「暗黒の時代」だった。

バブルの繁栄を享受した大人達が、その当時の「すばらしさ」を惜しむか

のように90年代を「暗い時代」として描いたため(ドラマとか本当に絶望

的なものが多かった)、その「暗さ」を背負わされた私たちは、

明るいミライなど持てようもなかった。

 しかし、時代は変わり、新聞や雑誌でも「バブル再燃か!」などという

見出しが躍るようになった。前回「騙された」私からすると、今回の

ミライへの希望も、「結局、上昇傾向にある経済状況の繁栄でしょ」と、

疑念のひとつも提示したくはなるのだが、決定的に違うのは、ネットが

持つ無限の可能性、ネットが創るもう一つの世界という者を、我々自身の

手で創っていけるということだろう。

 80年代バブルの時は、エスタブリッシュメントに「乗って」、つまり、

戦後の繁栄、企業の繁栄に「乗って」経済的繁栄を享受するという図式

だった。しかしこれからは、自分の手でミライを切り開かなければ、どん

な「明るいミライ」も待っていない。

 『メタボラ』(桐野夏生)を読むと、「そんなミライを切り開くなんて

言っても、今の若者には時間も金もないんだぞ?」という声が聞こえて

きそうだ。確かにそうだし、そこは改善しなければならない。

 だが、本書では、これから社会に出て行く若者になんとか希望を与え

るような社会を構成したいという欲望にあふれている。現状がいかに

悲惨だとしても、「お先真っ暗だ」と語ってしまえば、ミライへの動機

付けはへるだろう。どうにもならない現実を前にして、あえて努力しよう

などと考える人間がいるとは思えない。

 したがって、動機付けをどうするかが今後問われるのだろう。教育を

めぐる議論で昨今問題とされているのは、階層による「やる気」の有無

である。文化的にも経済的にも恵まれた家庭に育った子どもが、「やる気」

という、本人にはどうしようもないかに思える面で、他の子どもより

優れていることは知られている。家庭による格差によって、学ぶことへの

意欲にも格差が生まれているとしたら、それをどうするのか?

 ネットには、様々な学びの場が用意されている。それを生かせるのは、

「学ぶこと」にどん欲な人間だけだ。ただ、そもそも「学ぶこと」にどんな

意義も見いだせない人はどうするのか?「それは本人が悪い」と言えるの

か?勉強なんてしなくていい、と(間接的に)言われてきた「ゆとり世代

は、学ぶことへの動機がきわめて少ないことは明らかだ。

 こうした現状を改善することが、今後の課題となる。