『メタボラ』と『海辺のカフカ』

メタボラ

メタボラ

 『メタボラ』読了。

 想起したのは、村上春樹海辺のカフカ』。

 違いは、『海辺のカフカ』でカフカ少年が『田村○○』という「名」を

取り戻すことができなかったのに対し、『メタボラ』の≪磯村ギンジ≫が、

≪香月雄太≫という「名」を取り戻せたことだろう。

 『メタボラ』の「迷い」はしかし、ここから始まる。≪磯村ギンジ≫は、

「本当」の「名」を思い出した後も、その「名」で生きていくか、≪ギンジ≫

として生きていくのかの間で逡巡する。話はここで終わる。

 「名」をめぐる問題は、「父」をめぐる問題でもある。そして、「血」を

めぐる問題でもある。『海辺のカフカ』でも、カフカ少年は、「父」の「血」を

受け継いでいることに露骨な嫌悪を感じながらも、その「血」に対する責任を

引き受けるという決断をしたわけだが、同様の構造が『メタボラ』でも反復され

ている。

 しかし『メタボラ』では、カフカ少年のように迷う時間が残されていないところ

が痛々しい。未成年のカフカ少年は、いくら孤独だといっても、周囲から庇護され

る年齢である。それに対し、『メタボラ』の≪ギンジ≫は、働くしか生きる術はない。

けれど、働いても、またショウもない現実が待っているだけだ。

 この負の連鎖に対して、桐野夏生はどのような回答を差し出せているか?

残念ながら、『メタボラ』からは、そこまで読み取ることはできない。

ただ、『海辺のカフカ』が未成年の「自分探し」であったとすれば、そして、そこに

将来への希望があったとすれば、『メタボラ』の≪ギンジ≫には、同じ「自分探し」

であったとしても、未来には絶望しか待っていない。こうした現実への告発を描き

きったところに、桐野夏生の「誠実さ」を感じるとともに、改めて現状の厳しさを、

実感するのだった。

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