『メタボラ』
- 作者: 桐野夏生
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 2007/05/08
- メディア: 単行本
- クリック: 14回
- この商品を含むブログ (79件) を見る
リンコは、怒って行ってしまった。取り残された僕は、布団の角を直してもう1度
ガープ川を眺めた。朝からやれやれ、という気分だった。僕はつくづく女が嫌いだ、
と不意に思った。自分勝手で自己主張が強くて面倒くさい。だが、昭光は女が好きだ
女がいなかったら生きていけない、とまで思っているはずだ。・・・(302p)
最初から引用で申し訳ないが、この文章を読んでどのような感想を持っただろうか?
私の場合、「これって、『ノルウェイの森』じゃないか?」と思ったのだった。
『メタボラ』に出てくる<リンコ>という女性は、過剰なお節介やきで、色んなところに
絡んでくる少々うざったい女性として描かれている。さらに<僕>というのが、自分を同性
愛者じゃないかと疑っているということもあって、≪僕はつくづく女が嫌いだ≫と<僕>は
言うのだが、この「うざったさ」が、『ノルウェイの森』の<緑>によく似ているのだ。
『ノルウェイの森』の<緑>はうざったい。いきなりレストランで話しかけてきたり、家
に呼んで飯をご馳走してキスしてくれたり、女好きの男にとってはたまらないだろうが、
普通こんな女がいたら「どうよ?」と思わせるところがある。そこを巧みに書けるところ
が村上春樹のうまさなのだろうが、では、そのうまさとはなんだろう?
思うにそれは、「喪失感」「病んだ心」を、表面上は分からないが、登場人物達の行動
を深層の部分で決定づけるものとして描く力量だと言える。初期の作品から一貫して描き
続けられているテーマとして、人を失った悲しみ・重み・つらさを抱えて、人間はいかに
生きていけるか、があることはよく知られた事実であるが、その方法を洗練してきた村上
春樹にとって、<緑>の一見元気で快活な表層とは裏腹に、「病んだ」こころを抱えている
様を描くことは、「お得意の作法」とでも言うべきだろう。
一方でその「うまさ」が、村上春樹の女性描写(女性観)への免罪符として機能している
こともまた、事実である。知らず知らずのうちにセックスしてくれたり、飯を作ってくれ
たりするのは、「彼女たち」が「病んでいる」からであり、それをこれもまた「なぜか」
癒してくれる存在が<僕>だというわけだ。
こうした「うまさ」に対して、近年では春樹の「女性嫌悪」を指摘する研究論文が多数
書かれるに至っている。石原千秋先生の早稲田大学の講義では、この辺も触れてくれるの
で、興味のある方は聴講してみて欲しい。今まで春樹を「いい人」としてしか読んでこな
かった読者は、「え?春樹作品に女性嫌悪があるなんて…」と絶句するかもしれない。
ただ、そうした姿勢は石原先生がもっとも嫌うものだ。春樹の女性嫌悪を知ってもなお、
春樹を読み続けることを選ぶことができるか?私は選んだ。それこそ、勉強することの
意義だろう。
話が逸れた。この春樹作品に対する「女性嫌悪」を戯画的に描いて見せたのが、
『メタボラ』ではないか、というのが私の憶測である。<リンコ>がいる、一見パラダイス
のような場所も、見方を変えると『ノルウェイの森』の<療養所>に思えなくもない。
沖縄という地に、自分自身の手で「パラダイス」を作っているかのようにも思えるが、
はっきり言って、<内地出身者>が「自分」を癒す場として機能している。『ノルウェイ』
の<療養所>も、<癒しの場>として機能していたのではなかったか?