『メタボラ』

メタボラ

メタボラ

 読み進めている。

 ここのところ関心のある「憎悪」の連鎖について、

『メタボラ』の中に象徴的なエピソードがあったので、紹介してみる。

 『メタボラ』の主人公<僕>=「磯村ギンジ」は、住む場所を失った際、

一緒に暮らすことを了承してくれたバイト先の「専務」との仲を疑われ

(つまり、同性愛者ではないのかと疑われ)る。

 「ギンジ」は、自分が同性愛者である可能性を激しく否定するあまり、

「専務」の好意やいたわりをうっとうしいものに感じるようになる。

 この同性愛者ではないかという疑いは、自分で自覚したものではなく、

他者から与えられた評価によるものだ。「お前達、同性愛者じゃないのか?」

という悪意に裏打ちされた言葉が、「専務」に対する「ギンジ」の視線を、

がらっと変えてしまった。


 こうした経験は、多くの人にとって馴染みのあることだろう。

例えば、素敵な先輩の噂をしているとき、「実はあの先輩、○○なんだぜ」

などと言うやつがいて、そのせいでその先輩に対して持っていた、あこがれ

のような感情が無くなってしまったというようなことって、あると思う。

 それが全ていけないと言うわけではないが、こうした言葉によって、

少なくともその後の世界が豊かになるということは、ないのではないか。

ネガティブな評価によって変化した世界を、肯定的に受け止められるように

なることはない。たいてい、味気ない世界が待っているだけだ。


 騙されたまま、欺かれたままでいいと言っているのではない。

ただし、騙されたままでそれほどの実害がないのであれば、あえて知らないふりを

するのも、人生を味わい深いものにするひとつの方法ではないか。

 誰もが「真実」に耐えられるほど強い精神を持っているとは限らない。

「真実」の重みに耐えることが大事なら、<知る>前にまず<やってみる>という

態度も必要だろう。言葉による制約を受けることで、一歩踏み出す勇気を失って

しまうことが、もっとも回避されるべき事柄ではないか。