『メタボラ』
- 作者: 桐野夏生
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 2007/05/08
- メディア: 単行本
- クリック: 14回
- この商品を含むブログ (79件) を見る
①
ここのところ関心のある「憎悪」の連鎖について、
『メタボラ』の中に象徴的なエピソードがあったので、紹介してみる。
『メタボラ』の主人公<僕>=「磯村ギンジ」は、住む場所を失った際、
一緒に暮らすことを了承してくれたバイト先の「専務」との仲を疑われ
(つまり、同性愛者ではないのかと疑われ)る。
「ギンジ」は、自分が同性愛者である可能性を激しく否定するあまり、
「専務」の好意やいたわりをうっとうしいものに感じるようになる。
この同性愛者ではないかという疑いは、自分で自覚したものではなく、
他者から与えられた評価によるものだ。「お前達、同性愛者じゃないのか?」
という悪意に裏打ちされた言葉が、「専務」に対する「ギンジ」の視線を、
がらっと変えてしまった。
②
こうした経験は、多くの人にとって馴染みのあることだろう。
例えば、素敵な先輩の噂をしているとき、「実はあの先輩、○○なんだぜ」
などと言うやつがいて、そのせいでその先輩に対して持っていた、あこがれ
のような感情が無くなってしまったというようなことって、あると思う。
それが全ていけないと言うわけではないが、こうした言葉によって、
少なくともその後の世界が豊かになるということは、ないのではないか。
ネガティブな評価によって変化した世界を、肯定的に受け止められるように
なることはない。たいてい、味気ない世界が待っているだけだ。
③
騙されたまま、欺かれたままでいいと言っているのではない。
ただし、騙されたままでそれほどの実害がないのであれば、あえて知らないふりを
するのも、人生を味わい深いものにするひとつの方法ではないか。
誰もが「真実」に耐えられるほど強い精神を持っているとは限らない。
「真実」の重みに耐えることが大事なら、<知る>前にまず<やってみる>という
態度も必要だろう。言葉による制約を受けることで、一歩踏み出す勇気を失って
しまうことが、もっとも回避されるべき事柄ではないか。