昨日の続き。

 なぜ私が憎悪の問題を持ち出したかというと、

茂木健一郎氏のクオリア日記で公開されている公園を

MP3プレイヤーで聞いているのだけれど、その中で非常におもしろい

ことを言っていたからなのだ。


 茂木さんは、憎悪に満ちた表現を「黒魔術」、

憎悪を持っているんだけど、それをポジティブな表現に転換できたものを

「白魔術」と呼んでいる。

 また、茂木さんはブログを書くことを薦めていて、

なぜかと言えば、人が意識して文章を書くようになるからだ、という。

もちろん、いまだに人が読んでいることを意識してるとは思えないブログが

あることは事実だけれど、茂木さんの考えでは、そうしたブログでは結局、

他人の理解は得られない。

 私もブログを書くようになって感じるのは、これほど人から読まれないとは

思っていなかった。(笑)当たり前ですよね。だって、全然人のことなんて

考えていなかったんですもの。

 それゆえ逆に、思わぬ反応を得たこともありました。それは、「バックラッシュ」に

おける、一連の議論です。

 正直に告白すれば、あのときの私は、ブログが人に読まれうるということを

意識していませんでした。そんな私にとって、『バックラッシュ』の著者から

反応があるなどとは、思いもよらない出来事でした。

 かなりうろたえました。ちょっとした書き込み、それも、ネガティブな書き込みが、

どこかで誰かと繋がっていて、その「悪意」を増幅させてしまった。そこで調子に

のってあること無いこと書いてしまったがために、今もなお、その時のことを

自分の汚点として抱え込まざるを得なくなってしまった。

 角田光代村上春樹の『海辺のカフカ』を評して、こんなことを言っていました。

  現実とはべつのどこかで、ネガティブな感情とネガティブな感情は結びついて、
 ネガティブ二乗になり、さらにべつのネガティブをもとめてさすらう。発端の個人的
 側面は、二乗のあたりでもう意味を持たず、個人の思惑とはまったく関わりを持たない
 巨大な何かへと育っていく。


 憎悪は育っていく。一度目は自覚的に。二度目は無自覚に。

 自分の憎悪が、誰かの憎悪とどこかで繋がったとき、強大な暴力へと育っていく。

 結果的にそれが、誰かを傷つけるかもしれない。

 こういう意識が欠けているような気がする。

 赤木さんは、「たまたま」安定した地位を得ている人間へ憎悪を向けているが、

では、その人が生んだ子供のことはどうなのか。確かに、現在の「階級的な再生産」

の議論を考慮すれば、それこそゆゆしき事態なのかもしれない。

 けれど、予備校という現場、つまり、比較的裕福な(安定した職を得た)家庭を顧客

として商売している現場で、日々生徒に接していると、「この子ども」に罪はない

としか思えない。むしろ、「この子ども」に、今の現実を伝えられない私たちの

責任なのではないかとしか思えない。

 安定した生活を崩壊させることに、いったいどういう意味があるのか?

もしかして、それは「たまたま」得た地位だったかもしれない。

けれど、そこに憎悪を向けて一番の被害を被るのは、その地位に支えられて

安定した生活を享受できる、周りにいる人間である。

 そういう「ただ乗り」こそ許せないというかもしれませんが、今までの日本が

「平和」だったのは、そうした「ただ乗り」があったからこそではないか。