「仲間」とは

 僕が考えるに、「友だち」と「仲間」の違いは、目標を共有しているかどうかに

あると思う。例えば、高校の部活のメンバーは、今思うと「友だち」というより

「仲間」だった。それぞれの教室では、自分が属するグループがあり、そこでの人間

関係は、まさしく「友だち」の関係であると言える。そして、授業の時間が終わり、

教室という空間から解放された後の人間関係、それが「仲間」の関係である。

 私はそれがたまたま部活であったが、中には「バイト仲間」や「帰宅部仲間?」も

あっただろう。ただ、高校生の大部分が、何らかのクラブ活動に所属していた当時、

部活が「仲間」意識を醸成する機関として機能していたのは間違いない。「機関」と

いうと語感として少々重苦しいが、その「重苦しさ」こそが、部活の本質なのだ。

 特にそれほど強くはない部活動であっても、「一生懸命やること」が無条件に善で

あるとされる高校部活動(特にスポーツ系)の現状において、一人だけ「いや、僕は

ただのんびり、楽しくやりたかったんだ」と言うことは許されない。決して芽が出な

ことは分かりきっている場合でも、みんなと一緒に必死に練習しなければ、人間性

ら疑われてしまう。「勝利・努力・友情」に向かって全力で走らなければ、「落伍

者」のレッテルを貼られてしまうのだ。

 もちろん、その競争から「降りる」こともできるのだが、その降りた後の居心地の

悪さといったらない。ここで補足しておくと、その降り方には2種類あって、部活動

に所属しながらレギュラーになるのを放棄するか(上手になる努力を放棄するか)、

部活そのものからリタイアするかのどちらかだ。

 前者の場合は、部活動の中の「道化」として認識される場合が多いと思う。「下手

だけど、ムードメーカーとして貴重」な人材というのは、どの部活にも一人はいたは

ずである。後者はやめてしまうのだから、元○○部と周りから言われながら、しかし

自分が所属していた部活仲間と微妙な距離をとりながら、残りの学校生活を過ごさな

ければならない。

 問題は、このどちらにもなれない人間の存在である。

 「道化」でもなく、「止め」もできない。「下手」であることを認識しながら、そ

れを受け止められず、がんばっているふりをし続けなければならない。このような存

在のルサンチマンというのは凄いものがある。だいたい多くの人はこの部類に入るの

だけれど、なにもかもが中途半端なのだ。


 なんだか話が逸れてきたので、いったん休憩。