友達はいないけど、仲間がいるから大丈夫

 文化系トークラジオ Lifeのサイトが更新されていた。

 次回の放送のテーマは「友達」らしい。

 20歳を過ぎて、「友達」という言葉を口にするのが、気恥ずかしくなったように思

う。小中学生の頃なら、「俺たち友達だよな」と言い合えたのに、今そんなこと言うな

んて、ちょっと考えられない。

 どうしてかと考えてみるに、それは「友達」というのが、昔考えていたほど強固なも

のではないことを、無意識に学んできたからだと思う。小中学生の時「あれだけ」仲の

良かった友だちとも、現在は音信不通になった。部室や教室、私生活に至るまで、あれ

ほど濃密な時間を過ごしたはずなのに、そして、一生仲良く付き合っていくつもりだっ

のに、当時の記憶は徐々に薄れ、もはや「友だち」であったのかどうかも曖昧になって

いる。

 「友だち」というのは、毎日毎日「友だち」であることを確認し続けなければ、維持

ことは難しい関係なのではないか?毎朝登校したとき「自然」に入っていける関係性の

網。それを私は「友だち」と呼びたい。ところがその「自然さ」は、それほど強固では

ない。

 ちょうど私が14歳の頃、この「自然な」関係性の網は、びりびりと音を立てて破れて

しまった。いつも感じていた教室の「温度」と、微妙に違う雰囲気を、ある日私は感じ

た。それは本当に突然のことだった。なんだか分からないまま、いつもと違う「温度」

に包まれながら、「いじめ」という名の「監獄」に、知らぬ間にたたき込まれていた。

 かなり私的な経験でまことに恐縮だが、この体験があって、私の「友だち」に対する

感情は、とても複雑であった。その当時は、家に帰るのが待ち遠しく、家族の前で明る

く振る舞うのに苦労した覚えがある。家の明かりが見えたときには、膝から崩れ落ちそ

うなほどの安堵感を抱いたこともあった。あの苦しさは、いまだに「友だち」を信じる

ことができない原因であると、今になっては冷静に分析できる。

 なんだか話がグッと逸れたが、明日はできれば「仲間」について書いてみたい。