「デプス」を見ることは、幸福をもたらすか?

幸福論―“共生”の不可能と不可避について (NHKブックス)

幸福論―“共生”の不可能と不可避について (NHKブックス)

 『幸福論』にこんな記述がある。

 若い人たちは、

≪目に見えないデプスを通して馬鹿を見ないようにすること≫

をしないで、

≪目に見える理不尽や不条理に対する耐性≫を身につけようとしている、と。

 第一に、その「デプス」なるものの「深さ」を、どのようにしたら計れるか、

ということだと思う。例えば、「民意」なるものが、「くだらない」マスコミの垂れ

流し報道によって形成され、それが「世論」とされ堂々とまかり通っている世の中は

間違っている、という意見があったとして、その「マスコミの垂れ流し報道」が、

誰か特定の人、団体によって意図的に作り出されているとしよう。

 本文の具体例で言えば、ヒラリークリントンの「フィールグッドプログラム」なる

ものがそれだが、「フィールグッドプログラム」を推進しようとする人(団体)は、

自分(達)の利益や政策に反しない限りで、市民が「いい気持ち」でいられるよう

巧妙な情報操作を行っている。

 ここで問題が浮上してくる。このヒラリークリントン(及び、彼女の政策を支持す

る人たち)の考えを規定しているのは何なのか?本文で言えば≪頭の良いネオコン

的な思考様式である。では、この≪頭の良いネオコン≫的な思考様式を支持している

のは「誰」なのか?以下同様に、どんどん無限後退していって、最終的に「ユダヤ

陰謀」説に到達しそうで、「だったら考えるだけ無駄だよねー」ということになりか

ねないように思う。

 私のような若者が、「世の中変わんねー」と断念せざるを得ないのは、こうした

犯人捜しをいくらしたって、ネオコン的な風潮を、誰も変えられないことが「分かっ

て」いるからだと思う。

 もちろん、「評論家」や「学者」さん達は、「俺の言うとおりにすればいい」と

言うのだろうが、では、その「評論家」や「学者」の思考様式を「規定」している

「デプス」を「正しい」「善きもの」だと信じる根拠はどこにあるのだろうか?

 そんなことを考えてくると、頭が混乱してくるので、一方でネオコン的な思考様式

に同調して、安くて旨い製品を買い求めつつ、他方で地元生活圏を大切にする思考

様式に同調して、「町の景観や治安を守れー」なんて言ったりする。

 「市民」や「大衆」って、もっと「したたか」だと思うよ。