サブカルチャーを内省する

1.村上春樹の転換点

サブカルチャー文学論

サブカルチャー文学論

 大塚英志は『サブカルチャー文学論』において、村上春樹オウム事件に際して感じた困惑を以下のように記している。

 ≪つまり、彼は(村上春樹アメリカ小説やポップ・カルチャーといった「ジャンク」を「積極的にひっかきあつめる」ことで、しかし彼の小説が「ひとつの流れ」であることを(言い替えれば「文学」であることを)「恐れ」てはいない作家としてあった。だから『アンダーグラウンド』に於て村上は批判の俎上に載せようとしてのは、言うなれば、ジャンクとしての村上春樹サブカルチャーとしての村上春樹であるだけでなく、その「ジャンク」の向こうに「ひとつの流れ」、つまり全体性を発生してしまうサブカルチャーの隠された欲望に対してだった。≫

 どうしてこの記述を思い出したかと言えば、昨日も言及した『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』にある、以下の記述に出会ったからである。

 ≪「現実とは無関係な独立した安全圏だから安心してコメンテーションできる」という構造がそこにはあるように思える≫

 昨日私は、小田切「日常」という言葉を、片岡義男が書いているway of lifeと同一視してしまったが、以上の記述から、「日常」とは、「まんががまんがであること」の自明性に安住していられる状態のことを指すと考えられる。(またもや「誤解」しているか?)
 それでも「踏みとどまれるかどうか」が、「まんががまんがであること」には必要だとする結論は、それも「あり」だろう。ただ、そのことにはここでは踏み込まない。私の関心は、自己に内にあるサブカルチャーと、どのようにしてつきあっていくかだからだ。

2.サブカルチャー
 サブカルチャーに≪全体性を発生してしまう≫≪隠された欲望がある≫とする大塚の議論は、現在に於いてとても実感を伴った形で表れている。
 例えば「小泉劇場」に対する一連の反応を見ても、「小泉首相」という「改革者」が、旧来の体制を打破し、「輝かしい、望ましい未来」を与えてくれるはずだという構図は、子供の頃から繰り返し繰り返しテレビやマンガで受容してきた「物語」である。
 「正義の味方(に見えるキャラクター)」は、様々な困難に直面しながら、最終的には勝利を得、「新しい、善き」社会をもたらしてくれる。こんな一見ナイーブな世界観が、無意識のうちに働いていたと考えるのは、的外れだろうか?

3.90年代を振り返る
 私自身のサブカルチャーを振り返るうえで、文化系トークラジオ
Lifeは欠かせない。この番組を聞いていると、私が無自覚に子供時代を過ごした90年代が、どんなカルチャーによって構成されてきたかが、ありありと自信の内によみがえってくるのを感じるからだ。
 例えばどの回だったかは忘れてしまったが、あるリスナーからのメールで、スラムダンクから人生を学んだ、という投稿があった。
私はこれを聞いたとき、「え?まじかよ?」と思った。なぜなら、それまでマンガを人生に教訓として読みうるなんて考えたこともなかったからだ。
 しかし振り返ってみれば、『スラムダンク』という作品から、あまりにも多くのことを学んだこともまた、事実なのである。いまだに捨てられず、大事に全巻揃っている唯一のマンガが『スラムダンク』であることも、その証明である。けれど、それだけ思い入れの強い作品であるにもかかわらず、それから受けた強い影響を言語化する作業を怠ってきた。そのつけを、いつか払わなければならないのかもしれない。

4.まんがと文学
 村上春樹にとっての「文学」の揺らぎがオウム事件だったとすれば、アメリカにとってのそれは「9.11」だった。まぁ、そういうことだ。

戦争はいかに「マンガ」を変えるか―アメリカンコミックスの変貌

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アンダーグラウンド (講談社文庫)

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