男が「おとこ」を嫌ってる

百年前の私たち――雑書から見る男と女 (講談社現代新書)

百年前の私たち――雑書から見る男と女 (講談社現代新書)

1.まくら
 文化系トークラジオ Lifeで、私の敬愛(笑)する森山さんが、

「近頃の若者って、みんないい奴っすよ。家族を大事にするし、

飲まないし」みたいなことを言っていた。

 これを裏返して言うと、「家族を大事にしないで、大酒飲み」

というのは、「いい奴」ではないってことだろうか?

 そして、その「家族を大事にしない酒飲み」というのが、

いわゆる「おやじ」という存在なのではなかろうか?


2.「百年前の私たち」から見る現在
 なぜ上記のようなまくらから入ったかというと、石原千秋の著作

を読んだ後、どうも「男性(=おとこ)嫌悪」がほの見えたからだ。

 「女性はこれまでずーっと抑圧されてきた。制度に苦しめられて

きた」ということを学び、それを知った後、深い衝撃とともに

自分なりに苦しんだ経験がある。

 と同時に、ある種の共犯関係を持っていたことも自覚した。

その共犯関係とは、「私も女性を抑圧する制度に力を貸していた。

また、女性を抑圧する思想を内面化していた」ということだ。

 正しいか正しくないかで言えば、文句なくこれは正しくない思想だ。

であるからこそ、その思想を正そうと、また、同じように

誰かの権利を抑圧している思想に手を貸さないようにしようと、

大学で勉強をしてきた。

 そして、女性の社会進出を阻もうとする「思想」や、女性の権利を

抑圧するような「思想」を表明する人物に対して、「お前いつまで

そんなこといってんだよ」と思うようになった。

 けれど、もとはといえば自分だってそのような感情を持っていたの

であり、石原の言葉を借りれば、そのような感情こそ「本音」で、

今頃になってウルトラ保守的な言説をはいている人間がたまたま

表れたから、「あいつは保守的だ」と名指すことによって、

自分が持っていた「後ろめたさ」みたいなものを押しつけて

いるのだ。

3.後ろめたさ
 石原の著作は、私がかつて持っていた、そして今も

「本音」の部分では持っている、女性に対する保守的な感情を、

「百年前の私」という鏡を通して私自身に突きつけてきた。

 でも、これはとても大切なことだと思う。

 というのも、近頃はやりのジェンダー批評を男性が使って、

テクストを「斬って」いるのを読むと、妙に力が入っている

気がして、それはつまり、自分が持っている「うしろめたさ」

(=自分はかつて、女性を抑圧する思想に毒されていた)ことの

裏返しではないかと思うからだ。そして、そうしたテクスト批評

をする主体は、多くがその「うしろめたさ」を隠しているため、

「って、そういうお前は何様なんだ?」というつっこみをしたくなる

のが大半だからだ。

 一例を挙げれば、小森陽一村上春樹論が典型だろう。

村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)

村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)

 この書物を読めば明らかだが、小森センセの肩に、妙な力みが感じ

られる。なんだか、とても起こっている。「第三世界」や「抑圧され

ている他者」のために、必死に声を上げている。

 それで思うのだが、小森センセはどうなの?ということだ。

もちろんいかの書物を読めば、小森センセがアウトサイダーとして

つらい思いを抱いていたかはよく分かる。

小森陽一、ニホン語に出会う

小森陽一、ニホン語に出会う

 けれど、女性やサバルタンに対してはどうだっただろう。

ホントに小森センセは、村上春樹を糾弾するような立場に

あるのだろうか?

 私が言いたいのは、なにも村上春樹を批判するなとかいうことでは

ない。ただ、「うしろめたさ」があるなら、それをきちんと言語化

しなければならないのではないか、ということだ。

4.男性嫌悪
 なぜ「うしろめたさ」を言語化しなければならないか?

それは、その手続きを踏まないと、単なる「男性嫌悪」に表明に

陥ってしまうからだ。

 私が最初に書いた「まくら」の部分が、それに当たる。

「近頃の若者」がなぜ、今までの「おやじ」のように振る舞わないか?

思うにそれは、「おとこ」が嫌いだからだ。

 「男という制度」は、長らく女性を抑圧してきた。そして、

その現況はまさに「オヤジ」の論理だ。何とかそれを拒否したい。

しかり、社会に受け入れられようとすれば、そこに待っているのは、

相変わらず「オヤジ」の論理だ。

 それでも拒もうとすれば、もう全身で表現するしかない。

その帰結が、「飲まない、吸わない」ではないか?

 「おとこ嫌い」とはまさにそれで、「飲む、吸う」とは基本的に、

「若者」が嫌いな「オヤジ」の表象であり、それを拒否することこそが、

「若者」ができる、精一杯の反抗なのかもしれない。