男が「おとこ」を嫌ってる
- 作者: 石原千秋
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/03/16
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文化系トークラジオ Lifeで、私の敬愛(笑)する森山さんが、
「近頃の若者って、みんないい奴っすよ。家族を大事にするし、
飲まないし」みたいなことを言っていた。
これを裏返して言うと、「家族を大事にしないで、大酒飲み」
というのは、「いい奴」ではないってことだろうか?
そして、その「家族を大事にしない酒飲み」というのが、
いわゆる「おやじ」という存在なのではなかろうか?
2.「百年前の私たち」から見る現在
なぜ上記のようなまくらから入ったかというと、石原千秋の著作
を読んだ後、どうも「男性(=おとこ)嫌悪」がほの見えたからだ。
「女性はこれまでずーっと抑圧されてきた。制度に苦しめられて
きた」ということを学び、それを知った後、深い衝撃とともに
自分なりに苦しんだ経験がある。
と同時に、ある種の共犯関係を持っていたことも自覚した。
その共犯関係とは、「私も女性を抑圧する制度に力を貸していた。
また、女性を抑圧する思想を内面化していた」ということだ。
正しいか正しくないかで言えば、文句なくこれは正しくない思想だ。
であるからこそ、その思想を正そうと、また、同じように
誰かの権利を抑圧している思想に手を貸さないようにしようと、
大学で勉強をしてきた。
そして、女性の社会進出を阻もうとする「思想」や、女性の権利を
抑圧するような「思想」を表明する人物に対して、「お前いつまで
そんなこといってんだよ」と思うようになった。
けれど、もとはといえば自分だってそのような感情を持っていたの
であり、石原の言葉を借りれば、そのような感情こそ「本音」で、
今頃になってウルトラ保守的な言説をはいている人間がたまたま
表れたから、「あいつは保守的だ」と名指すことによって、
自分が持っていた「後ろめたさ」みたいなものを押しつけて
いるのだ。
3.後ろめたさ
石原の著作は、私がかつて持っていた、そして今も
「本音」の部分では持っている、女性に対する保守的な感情を、
「百年前の私」という鏡を通して私自身に突きつけてきた。
でも、これはとても大切なことだと思う。
というのも、近頃はやりのジェンダー批評を男性が使って、
テクストを「斬って」いるのを読むと、妙に力が入っている
気がして、それはつまり、自分が持っている「うしろめたさ」
(=自分はかつて、女性を抑圧する思想に毒されていた)ことの
裏返しではないかと思うからだ。そして、そうしたテクスト批評
をする主体は、多くがその「うしろめたさ」を隠しているため、
「って、そういうお前は何様なんだ?」というつっこみをしたくなる
のが大半だからだ。
- 作者: 小森陽一
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られる。なんだか、とても起こっている。「第三世界」や「抑圧され
ている他者」のために、必死に声を上げている。
それで思うのだが、小森センセはどうなの?ということだ。
もちろんいかの書物を読めば、小森センセがアウトサイダーとして
つらい思いを抱いていたかはよく分かる。
- 作者: 小森陽一
- 出版社/メーカー: 大修館書店
- 発売日: 2000/04/01
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ホントに小森センセは、村上春樹を糾弾するような立場に
あるのだろうか?
私が言いたいのは、なにも村上春樹を批判するなとかいうことでは
ない。ただ、「うしろめたさ」があるなら、それをきちんと言語化
しなければならないのではないか、ということだ。
4.男性嫌悪
なぜ「うしろめたさ」を言語化しなければならないか?
それは、その手続きを踏まないと、単なる「男性嫌悪」に表明に
陥ってしまうからだ。
私が最初に書いた「まくら」の部分が、それに当たる。
「近頃の若者」がなぜ、今までの「おやじ」のように振る舞わないか?
思うにそれは、「おとこ」が嫌いだからだ。
「男という制度」は、長らく女性を抑圧してきた。そして、
その現況はまさに「オヤジ」の論理だ。何とかそれを拒否したい。
しかり、社会に受け入れられようとすれば、そこに待っているのは、
相変わらず「オヤジ」の論理だ。
それでも拒もうとすれば、もう全身で表現するしかない。
その帰結が、「飲まない、吸わない」ではないか?
「おとこ嫌い」とはまさにそれで、「飲む、吸う」とは基本的に、
「若者」が嫌いな「オヤジ」の表象であり、それを拒否することこそが、
「若者」ができる、精一杯の反抗なのかもしれない。