私のホンネ

百年前の私たち――雑書から見る男と女 (講談社現代新書)

百年前の私たち――雑書から見る男と女 (講談社現代新書)

 石原千秋の最新刊を購入。「はじめに」と「第1章」を読む。

 「はじめに」の部分で、おもしろいことが書いてある。引用する。

 ≪「本音」が「保守的な言説」という相対化を免れ、「保守的な

  言説」が「本音」の代弁者として振る舞うようになる。それが

  「保守化」ということの意味だ。≫(15p)

 大学受験国語の問題だった、傍線でも引かれて、「この文章の意味は

なにか?分かりやすく説明せよ」とでも書かれそうな文章だ。

 まぁ、それはよいとして、この文章には、石原先生の立場が明瞭に

表れている。どういうことか?

 石原先生が書いた『教養としての大学受験国語』という書物は、

高校生の私にとって鏡のようなものとして機能していた。

自分が抱いている「偏見」や「常識」が書き込まれていて、

「あなたが持っている「女性」や「身体」というのは、ある特定の

時代のものの見方でしかないんですよ」ということを教えられたのだ。

それは、「ことば」を通して「自分」を徹底的に相対化するきっかけ

となった。

 それ以来、私は自分がどんな「偏見」や「常識」に捕らわれているか

が知りたくて、文学部に入り(この辺はちょっと誤解があったけど)

学問を通じて「自分」を相対化する訓練をしてきた。

 ここで引用した文章に戻るが、石原先生が「本音」と呼ぶのは、

例えば「女性はご飯を作って、洗濯をして、つまり家事育児を

するのが当然だ」と思いこんでいた時の私である。

 これが私の「本音」である。否定する気は毛頭ない。

生まれたときから高校生の時までそう思ってきたし、その思いこみが

母親を、ある部分では苦しめてきた。「満足な」食事を作ってくれない

時は、「母親として失格」なんじゃないかと、傲慢にも思ってきた。

このような≪「本音」が「保守的な言説」という相対化を免れ≫る

とはどういうことか?

 「保守的な言説」とはこの場合、否定的なニュアンスで使われている。

誰もが抱いていたはずの「本音」を、直接に「保守的だ!」と言われるの

は、いい感じではない。だから、それが「本音」であることを隠したまま、

「おまえだってそういう『本音』を持っていたんじゃないの?」という

つっこみを入れられる前に、「そんな保守的なこと言ってちゃだめじゃない」

と先手を打ち、自分を守っている。そういうことだろう。

 でも、それは知性とはほど遠い態度であると思う。

私が石原先生の書物から一貫して受け取ってきたメッセージは、

「本音」を持って生きてきたのはしょうがない。でも、それを相対化して

普遍的なところに位置づけ、自分なりに思考できるようになるのが知性だ、

というものだ。これは、あながち間違いではないと思う。

 今回の『百年前の私たち』も、そのような書物である。石原先生は

「はじめに」の最後に、この本を自分が「大衆」であるという自覚を持つ

人に読んでほしいと記している。自分の中にある「大衆」的なところを、

過去の「大衆」という鏡に照らして眺めることで、自分の「大衆」性に

気づき、あらためて自分を見つめ直すきっかけとしたい。

教養としての大学受験国語 (ちくま新書)

教養としての大学受験国語 (ちくま新書)