お節介では?

1.フリーターの発言

生きさせろ! 難民化する若者たち

生きさせろ! 難民化する若者たち

 雨宮は、フリーターの「社会のせいにはしたくはない」という

発言を、≪社会がどうとか言うのは自分の無能さからの

「逃げ」「責任転嫁」≫からくると考えているようだが、

本当にそうなのだろうか?

 世代的な差はあるのかもしれない。私は1984年生まれなので、

その辺の価値観の差を承知で、以下に私の考えを述べる。


2.厳しい世界の掟

東大のこと、教えます―総長自ら語る!教育、経営、日本の未来…「課題解決一問一答」

東大のこと、教えます―総長自ら語る!教育、経営、日本の未来…「課題解決一問一答」

即戦力の磨き方 (PHPビジネス新書)

即戦力の磨き方 (PHPビジネス新書)

 この2冊を読むと、生まれ持った才能がある人や、

努力して自分を磨き続けることこそ生き甲斐であると感じられる

人にとって、これからの世界は生きやすい世の中になりそうだ。

 大前氏によれば、≪会社や国がどうなろうと、自分の力で生き

抜く力≫をつけなければならない。私はいまだに、「そうはいっても、

最後には国や社会が助けてくれるのではないか」という

考えから抜け出せない。子供の頃から特別貧しい想いもしたこと

はなく、周囲から大事に育てられてきたから、その「甘さ」が

抜けないのだろう。

 けれど、それは「今は昔」の話だ。

 ≪いわれたことしかできない単純作業の仕事は、これから

どんどんインドや中国に移っていくから、なんの努力もしない

人の年収は、二百万円まで落ちるということだ。倒産やリストラ

で職を失ってアルバイト生活となれば、それ以下になるのは必至だ≫

 こうなっては最後、国や会社の保護が期待できたのは、過去のこと。

いつ「もう死んでください」と言われるか、分かったものではない。

実際、アフリカやアジア諸国では、「死んでいいよ」といわれている

に等しい人間が、大勢いる。

 そうはいっても、これだけの先進国で、それはないだろう!と

思うだろうか?私もそう思いたい。でも、本当にそうか?

≪これからは予測不可能な時代である≫とはよく聞く言葉だが、

≪予測不可能≫なら、逆に言えば何でも起こりうるということだ。

 雨宮も述べているとおり、「若者のモラルの崩壊」より、

≪大企業のモラルの崩壊≫の方が明らかに深刻だ。そんな大企業が

「日本の国力」の頼みの綱であってみれば、彼らに「モラル」を

期待するのは、無理な話だ。

 政治に期待したい?いやいや。雑誌や新聞をよく読んでみると、

株や資産運用など、「老後の保障はご自分で」という記事にあふれ

ている。健康信仰も、ものすごいところまで進んでいる。誰もが

健康を気にしている。こんな「ありがたい」国民も珍しい。

国から見れば、国民の健康を、国家ではなく国民自身で管理して

くれるのだから。

 さらに、国民年金崩壊の問題もある。私は年金に疎いのでよく

分からないのだが、どう考えても今から約45年後の「楽しみ」の

ために、国民年金の積み立てなんてできない。まして、こんなに

「年金崩壊」が言われているのに。

3.若者のすべて
 話がかなり逸れている気がする。ここらで元に戻そう。

まず私たちは、国や社会は当てにできないという現実を知らな

すぎる。「いざとなれば、誰かが助けてくれる」という妙な

「確信」を持っているが、それはとんだ間違いなのだ。

 「社会のせいにしたくない」といってしまうは、

「俺たちは俺たちで、年収200万円以下で楽しくやっていく

から、あんたたちは勝手にどしどし稼いでくれよ」と

思っているからではないか。

 でも、そうはいかないのだ。年収200万円稼いでぎりぎり

暮らしていける世界(ここでは日本)が、かつてはあった。

けど、今はない。そもそも、これからの「世界像」の描き

方が、全く違っている。

 「温かい食事」も「屋根のある部屋」も存在しない、そんな

世界が迫りつつある。いつまで日本は、食料を輸入し続ける

ことができるのか?先進国に食料を輸出し、それでいて自分たちが

食べる分の食料を満足に確保できない国が、いつまで私たちの

ために食料を作ってくれるのか?

 雨宮の言う「奴隷」は、大企業にこき使われるという意味で

使われている。けれど、歴史を俯瞰すると、「先進国」の繁栄は、

常に「後進国」の人間を「奴隷」のように使うことで成り立って

きた。日本とて、例外ではない。

 私はこれまで「餓え」を知らずに暮らしてこれた。これだけで、

もう「満足」と思わなければならないのでは?だって、私がこたつに

入ってテレビを見ている間、世界のどこかでは私たちの日々の食料を

供給するために、「奴隷」のように酷使されている「人間」がいた

(いる)のだから。

 雨宮の言う「奴隷」は、やはり「奴隷」ではないと思う。

戦後「先進国」の繁栄を支えてきた、無数の声なき「サバルタン

こそ、「奴隷」と呼ぶにふさわしい。その「奴隷」の「叫び」が、

今になってよみがえってきたというのは、言い過ぎだろうか?

4.黒沢清「叫び」
 黒沢清の最新作「叫び」「叫」だったか?)は、まさに

そうした「奴隷」の声で成り立っている。私たちは、世界のどこかで、

いまも多くの「奴隷」たちが、私たちには「想像」もつかない環境

の中、死んでいるのを「知っている」。

 「知ってはいる」が、見ないようにしている。小谷野敦

「想像力」という言葉を安易に使うなと批判しているが、

この「知ってはいる」が「見ないようにしている」という問題は、

「想像力」無しには乗り越えられないような気がする。

 「奴隷」の「叫び」は、「今」「ここ」に届いている。

他者と死者―ラカンによるレヴィナス

他者と死者―ラカンによるレヴィナス

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

 この2冊も、「奴隷」を主題にしている。

 内田が村上春樹の≪うなぎ≫に関する発言から≪死者≫へと

つなげていく論考は見事だ。(ただそれは、石川忠司にして

みれば錯覚に過ぎないのだが・・・)

 ただ、この2作があくまで「奴隷」への想像力を喚起するのに

とどまっているのに対し、黒沢の作品は、「奴隷」からの

「復讐」へと踏み込んでいる。

 「今まではごめんなさい。これからはもうしません」では

すまないのだ。これはフリーターの思考と同じだ。

「ほっといてくれ」といったところで、もうほっといちゃくれ

ないのだ。「おい!お前らさんざんいい想いをしてきたんじゃ

ないのか!俺たち『奴隷』は、お前らの生活を支えるために

生きてるんじゃないんだぞ!

 フリーターが企業の「奴隷」なら、後進国で文字通り「奴隷労働」

をしている人々は何なんだろう?彼らの「叫び」は、フリーターには

とどかないのか?

 鶴見済は以下の書物で、「そんなことは考えるな」みたいなことを

いっている。確かにそうなんだけど、無視していられる時代はもう

終わったのだ。
 

人格改造マニュアル

人格改造マニュアル