『動ポモ2』の達成と、文学研究の未来

 昨日のブログで「困惑した」と書いた『動ポモ2』だったが、

文化系トークラジオ Lifeの「教養」の回を聞いて、

いささか考えが変わってきた。

 私が感じた「困惑」は、文学研究の歴史を知っているものにとっては

「常識」ともいえるオーソドックスな分析手法を東が採用していた

ことに起因している。

 ところがこの「常識」っていうのが、実は全然「常識」ではないって

ことが、昨日のLifeを聞いていて分かってきた。作家論から作品論、そして

批評理論へと向かう文学研究の流れは、「文学」を専門にしている

者にとっては「当たり前」に知っているべきである。

 「「文学」なんて個々人それぞれ、どんな読み方があってもいい」とは

いうけれど、「文学」を専門に研究している専門家にとっては、そうも

いかない。対外的には「人それぞれ」なんて建前を言っておいて、

いざ研究書を書くとなると、途端に専門家の間でしか流通しないような

ジャーゴン(難解な専門用語)のオンパレードで、己の文体と解釈に

酔いしれている研究者も少なくない。

 それに比して、『動ポモ2』はとても読みやすく、かつわかりやすい。

専門家にしか分からない難解なジャーゴンは一切使われていない。

それでいて、ちゃんとしたテクスト分析をして、新たな理論的背景も

ふまえて書かれている。

 この点こそ素晴らしい!

 Lifeの中でCharlieが、中俣さんの新刊に関して、

「文学」という閉鎖系=鍵のかかった部屋をいかに解体するかという

試みだったのではないか、という感想を言っていたけど、

それと同じことが、この『動ポモ2』にもいえる。

 こんなに分かりやすく文学研究の手法を使って「今」を解読した

書物があったかというと、私には思いつかない。もちろん、多くの

書評は書かれているが、文学研究の歴史をふまえて書かれた文章は

読みづらく、反対に研究なんて無視した書評は、評者の個性が勝負で、

それ以外はありきたりな「感想」にようなものに堕してしまいがちだ。

 東はその両方をうまく取り入れている。分析の歴史をきっちりとふまえ、

それでいて自分の専門領域の特性も生かしている。

 文学者は、東浩紀の試みをどう評価するだろうか?

「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか

「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか