『動ポモ2』読了後の困惑

 第2章以降の作品分析において著者は、≪「環境分析」的

な読解≫を採用する。これは、≪作家がその物語に意図的にこめた

主題とは別の水準で、物語がある環境に置かれ、あるかたちで流通

するというその作品外的な事実そのものが、別の主題を呼びこんで

くると考える≫読解方法である。

 それに対置されるのが、≪自然主義的な読解≫である。これは、

≪作家がある主題を表現するためにある物語を制作し、そして

その効果は作品内で完結していると考える≫読解方法のことだ。

 それでは、私の感じた困惑を、前者と後者両方に対して述べてみよう。

 まず後者から。

 ≪ある主題を表現するために≫作家が≪ある物語を制作≫するのだと

したら、当然その「主題」を「意図」した作家の存在が前提とされる

はずである。著者は他の箇所で、≪自然主義的な読解は、物語と現実を

対応させる≫とも書いている。つまり、この場合の現実とは、≪ある物語

を制作≫した作家が属する現実を指しているのであり、そこで生活している

「作家」の存在が前提とされている。

 ところが、著者は≪その効果は作品内で完結していると考える≫と書く。

これは矛盾ではないだろうか。作者の「意図」を前提とする限り、

現実の作者の存在は不可欠のはずであり(なぜなら、そうでなければ

「ある主題を表現」しようとした主体の存在など想定できないはずだから)

その作者が生きている現実をも含むものになるからだ。

 日本文学の「伝統」が陥った悪しき「作家主義」とは、まさにこの点に

起因している。物語に宿る「主題」を読解することこそが「読書」である

との前提が、「たった一つの読解(=「主題」の解読)」に向かい、

「作家の墓荒らし」的な状況を生み出したのだ。

 著者の定義した≪自然主義的な読解≫は、2つに分けて考えねばなるまい。

 次に、≪「環境分析」的な読解≫である。

 『動ポモ2』では、著者の言う≪『環境分析』的な読解≫が、

なんだか「日本文学の伝統」からみると、とんでもない斬新な分析方法

であるかのように語られている(ように読みうる)が、決してそんなこと

はない。批評理論の存在がそれである。

 例えば、小森陽一の最近の仕事がそれに当たる。

村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)

村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)

 この書物で小森は、村上春樹の『海辺のカフカ』を、

≪作家がその物語にこめた主題とは別の水準≫で、『海辺のカフカ』が

≪ある環境に置かれ、あるかたちで流通するというその作品外的な

事実そのものが、別の主題を作品に呼び込んでくる≫ことを

明らかにした。フェミニズム批評やポストコロニアル理論を駆使し、

海辺のカフカ』が現代日本という環境下で、いかなる(悪)影響を、

作家の意図とは無関係にもたらしているかを明らかにしている。

 小森の分析はしかし、理論に頼りすぎている嫌いがあり、その点が

東浩紀との分岐点をなしている。小森の分析は、作品のために理論を

応用しているというより、理論の正当性を保証するために、『海辺の

カフカ』という「権威」を利用しているようにしか読めない。

 それに対し、東浩紀は作品の構造をきちんと分析した上で、

理論的背景を持ち出してきている。

 皮肉な話だ。というのも、小森陽一こそ、作品の構造分析で

名をはせた人物だったのだから。

構造としての語り

構造としての語り

文体としての物語

文体としての物語

 上記の書物を読めば、東浩紀の手法が、日本文学研究の「伝統」

の上にあることは明らかだろう。

 研究史的に見て東の手法の優れた点は、

テクスト論と批評理論がうまく融合している点にあるといえる。

構造分析をしつつ、その分析結果を作品内に押し込めることなく、

理論的背景を導入することで現実の世界に開いていく。

 ここまで書いてきて、私の感じた困惑の姿がはっきりしてきた。

それは、東の分析手法が、文学研究を多少かじった私から見ると、

とてもオーソドックスだということだ。さらに、真面目すぎるぐらい

真面目に作品の分析をする東の手法は、優等生的ですらある。

今度テクスト論についてみすず書房から本をだす石原先生が、

この『動ポモ2』をよんだら、手をたたいて喜ぶに違いない。(笑)