『動ポモ2』読了後の困惑
ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)
- 作者: 東浩紀
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/03/16
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な読解≫を採用する。これは、≪作家がその物語に意図的にこめた
主題とは別の水準で、物語がある環境に置かれ、あるかたちで流通
するというその作品外的な事実そのものが、別の主題を呼びこんで
くると考える≫読解方法である。
それに対置されるのが、≪自然主義的な読解≫である。これは、
≪作家がある主題を表現するためにある物語を制作し、そして
その効果は作品内で完結していると考える≫読解方法のことだ。
それでは、私の感じた困惑を、前者と後者両方に対して述べてみよう。
まず後者から。
≪ある主題を表現するために≫作家が≪ある物語を制作≫するのだと
したら、当然その「主題」を「意図」した作家の存在が前提とされる
はずである。著者は他の箇所で、≪自然主義的な読解は、物語と現実を
対応させる≫とも書いている。つまり、この場合の現実とは、≪ある物語
を制作≫した作家が属する現実を指しているのであり、そこで生活している
「作家」の存在が前提とされている。
ところが、著者は≪その効果は作品内で完結していると考える≫と書く。
これは矛盾ではないだろうか。作者の「意図」を前提とする限り、
現実の作者の存在は不可欠のはずであり(なぜなら、そうでなければ
「ある主題を表現」しようとした主体の存在など想定できないはずだから)
その作者が生きている現実をも含むものになるからだ。
日本文学の「伝統」が陥った悪しき「作家主義」とは、まさにこの点に
起因している。物語に宿る「主題」を読解することこそが「読書」である
との前提が、「たった一つの読解(=「主題」の解読)」に向かい、
「作家の墓荒らし」的な状況を生み出したのだ。
著者の定義した≪自然主義的な読解≫は、2つに分けて考えねばなるまい。
次に、≪「環境分析」的な読解≫である。
『動ポモ2』では、著者の言う≪『環境分析』的な読解≫が、
なんだか「日本文学の伝統」からみると、とんでもない斬新な分析方法
であるかのように語られている(ように読みうる)が、決してそんなこと
はない。批評理論の存在がそれである。
例えば、小森陽一の最近の仕事がそれに当たる。
- 作者: 小森陽一
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≪作家がその物語にこめた主題とは別の水準≫で、『海辺のカフカ』が
≪ある環境に置かれ、あるかたちで流通するというその作品外的な
事実そのものが、別の主題を作品に呼び込んでくる≫ことを
明らかにした。フェミニズム批評やポストコロニアル理論を駆使し、
『海辺のカフカ』が現代日本という環境下で、いかなる(悪)影響を、
作家の意図とは無関係にもたらしているかを明らかにしている。
小森の分析はしかし、理論に頼りすぎている嫌いがあり、その点が
東浩紀との分岐点をなしている。小森の分析は、作品のために理論を
応用しているというより、理論の正当性を保証するために、『海辺の
カフカ』という「権威」を利用しているようにしか読めない。
それに対し、東浩紀は作品の構造をきちんと分析した上で、
理論的背景を持ち出してきている。
皮肉な話だ。というのも、小森陽一こそ、作品の構造分析で
名をはせた人物だったのだから。
- 作者: 小森陽一
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- 作者: 小森陽一
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の上にあることは明らかだろう。
研究史的に見て東の手法の優れた点は、
テクスト論と批評理論がうまく融合している点にあるといえる。
構造分析をしつつ、その分析結果を作品内に押し込めることなく、
理論的背景を導入することで現実の世界に開いていく。
ここまで書いてきて、私の感じた困惑の姿がはっきりしてきた。
それは、東の分析手法が、文学研究を多少かじった私から見ると、
とてもオーソドックスだということだ。さらに、真面目すぎるぐらい
真面目に作品の分析をする東の手法は、優等生的ですらある。
今度テクスト論についてみすず書房から本をだす石原先生が、
この『動ポモ2』をよんだら、手をたたいて喜ぶに違いない。(笑)