諏訪哲二『なぜ勉強させるのか?』ノート

なぜ勉強させるのか?  教育再生を根本から考える 光文社新書

なぜ勉強させるのか? 教育再生を根本から考える 光文社新書

○1980年代中葉に生じた変化
国民形成→個性重視

○学校の役割
 「学力向上」と「人間形成」の二つがあるが、「学力向上」が突出して語られるようになった。
しかも、「学力向上」が、国や我々のレベルではなく、わが子がどれだけ頭が良くなるか
にだけ関心が向くようになった。
 わが子の教育には莫大な投資がなされている。それゆえ、その投資の分は当然回収されなければならない。
こうした資本の論理にされされた教育機関は、労働力としていかに高く売れる人材を育てられるかが問われ
るようになった。

○経済界の要請
世界との頭脳競争や経済競争に勝てる独創的な人材育成

○教育の「私事化」
地域共同体の営み→行政サービス

○ものさしの変化
点数→お金(稼げるか稼げないか)

学力低下
ジャーナリズムの領域では、90年代から盛んに言われるようになった。
しかし現場の実感としては、70年代後半から80年代中ように既に顕在化していた。

「まとめ」
 地域社会がまだ存在していて、住民の顔が「視える」時代においては、地域住民がどんな教育を
教師に求めているのかが、ある程度予測可能であった。
 また、教育の目的が「国民」の育成、つまり、一定のルールの下で、平準化、一般化された市民
を育成することであることが、「当然」のこととされる社会においては、「生徒・住民」の多様なニーズ
教育機関が応えるべきだとは考えられていなかった。
 しかし、住民の流動化が進み、地域社会が空洞化するにつれ、住民の顔が「視えなく」なった。
都会から移住してきた高学歴・高収入の親が、その地域社会では想定されていなかったような
教育水準を要求してきた。
 かくして教師は多くの仕事を抱えなくてはならなくなった。