大衆に迎合する表現領域の枯渇
- 作者: 小谷野敦
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2007/01
- メディア: 文庫
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- 作者: 野田正彰
- 出版社/メーカー: ユビキタスタジオ
- 発売日: 2006/04/01
- メディア: 単行本
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どちらの書物も、結局のところ、大衆に迎合する表現はいずれ枯渇する、ということを述べている。
それとの関連で(?)最近気になるのが、朝日のCM(ジャーナリスト宣言)である。
「悲惨」な映像を、「平和な」日本の日常生活に差し挟むという発想それ自体は悪くないと思う。
しかし、その「平和な」日常の象徴が、ほとんど「今時の若者」として表象されているところが、
朝日の欺瞞であり、CMという枠の限界である。それに「彼ら」は気づいているのだろうか?
「赤ちゃんを抱えてうれしそうに微笑む新妻」
「家族団らんで、高級料理を楽しむ一家」
「昼間からゲートボールに興じる老人達」
これらの映像を、「今時の若者」の変わりにCMに挿入したらどうなるか?
間違いなく、抗議の電話の嵐だろう。
「私達の《平和な日常》に文句でもあんのか!」と。
「《平和な日常》を送るのがなんか問題でも?」と。
ここで、「あぁ、文句オオアリだよ」と言えないのが、現在のジャーナリズムの表現が枯渇している表れだろう。
小谷野敦は『すばらしき愚民社会』で、若者に媚びる大人を批判しているが、
「若者に媚びている」のは活字媒体の「大人」であり、
テレビや雑誌などでは圧倒的に、「今時の若者」のほうがバカにしやすい。
活字を読む若者は中途半端に知的なだけに、「媚びる」表現(つまり、自分が理解できることだけ)には最低限反応できるが、一方テレビや雑誌にしか接しないものたちは、もはやちょっとでも「考え」たり「批判」するこ とすらできなくなってるから、朝日のCMでいくらバカにされたって、自分がバカにされていることすら気づかないからだ。