大衆に迎合する表現領域の枯渇

すばらしき愚民社会 (新潮文庫)

すばらしき愚民社会 (新潮文庫)

 小谷野敦の、大衆に迎合しすぎれば、衆愚政治をまねくだけだということばは、昨日読んだ、
「麻原死刑」でOKか?

「麻原死刑」でOKか?

 に通底する問題だと思う。
 どちらの書物も、結局のところ、大衆に迎合する表現はいずれ枯渇する、ということを述べている。

 それとの関連で(?)最近気になるのが、朝日のCM(ジャーナリスト宣言)である。
 「悲惨」な映像を、「平和な」日本の日常生活に差し挟むという発想それ自体は悪くないと思う。 

 しかし、その「平和な」日常の象徴が、ほとんど「今時の若者」として表象されているところが、
 朝日の欺瞞であり、CMという枠の限界である。それに「彼ら」は気づいているのだろうか?

 「赤ちゃんを抱えてうれしそうに微笑む新妻」
 「家族団らんで、高級料理を楽しむ一家」
 「昼間からゲートボールに興じる老人達」

 これらの映像を、「今時の若者」の変わりにCMに挿入したらどうなるか?

 間違いなく、抗議の電話の嵐だろう。
 「私達の《平和な日常》に文句でもあんのか!」と。
 「《平和な日常》を送るのがなんか問題でも?」と。

 ここで、「あぁ、文句オオアリだよ」と言えないのが、現在のジャーナリズムの表現が枯渇している表れだろう。

 小谷野敦は『すばらしき愚民社会』で、若者に媚びる大人を批判しているが、
 「若者に媚びている」のは活字媒体の「大人」であり、
 テレビや雑誌などでは圧倒的に、「今時の若者」のほうがバカにしやすい。

 活字を読む若者は中途半端に知的なだけに、「媚びる」表現(つまり、自分が理解できることだけ)には最低限反応できるが、一方テレビや雑誌にしか接しないものたちは、もはやちょっとでも「考え」たり「批判」するこ とすらできなくなってるから、朝日のCMでいくらバカにされたって、自分がバカにされていることすら気づかないからだ。