価値観の一元化は是か非か

 トーマス・フリードマンの『フラット化する世界』から再び。

アメリカへの留学生はインド人が一番多く、その次に中国人だそうだ。

彼らにははっきりしているのだろう。

 
     「人生」を生きるとは、英語を学び、IT技術を身につけ、経済的に成功する


 これこそが国民的に共有された「正しい」生き方であり、それ以外の価値観は、

さほど検討するに値しない、言い換えれば、生きるに値しない「人生」しか生み出さない、

そう考えられているのではないだろうか?

 このように考えてみると、何かに似ている。それは、

  
     沢山勉強して、一流大学に入り、いい会社に勤めるのが「正しい」人生
 

といわれてた、戦後日本経済の躍進を支えてきた価値観だ。

 つまりこういうことだ。経済が成長している間は、価値観の多様性が失われる。

なぜならば、経済的成長こそが、豊かな暮らしを約束してくれるのであれば、

それ以外の選択肢など、およそ自己満足に過ぎず、生きるに値しない。

まして、それまで極度の貧困にあえいでいたり、自分の能力がまったく発揮できない社会に育ったので

あれば、なおさらだろう。音楽や文学をやりながら「ヒンソ」に暮らしたり、

田舎で農業をやりながら細々と暮らしたりというのは、経済的に成熟した社会だからこそ、

逆説的に生まれてくるのだ。