「家政婦」として生きる

 友達の妹がZ会の通信添削をやっていて、

英語の問題を見せてもらったら、こんな風なことが書いてあった。

 
 今後、富を求めて「豊かな」日本にたくさんの移民がやってくるだろう。

その移民たちを、共働きの日本人達は「家政婦」のようなものとして雇うようになる。

そうすれば、外国人に対する日本人の見方も変わるだろう。


 まぁ、だいたいこんなところだ。

これは一見、少子化の対策の一つとして読めるような気がする。

もっと外国人を受け入れて、その人たちに「家庭」のことは任せればいいじゃないか、と。

 しかし、これは甘すぎる認識というべきではないだろうか?

 この文章には、いったいいつまで日本人が「家政婦」を雇う側にいられるのか、という危機感が抜け落ち

ている。こう言うべきではないのか。富を求めて日本に来る優秀な外国人が、

日本でがっぽり稼ぎ、そのまま住み着いて、私達を「家政婦」として雇ってくれるようになる、と。

 注意したいのは、なにも「だから外国人に日本に入ってきて欲しくない」といいたいのではない。

むしろ私達は、「家政婦」のような豊かな人しか召抱えることができない職を創出してくれる

優秀な外国人を、もっと受け入れるべきではないのか?

 こんな風に考えたとき、「家政婦」として生きるのも悪くないかなぁ、なんて思ってしまった。

「家政婦」というと、知的で創造的な職業とはおよそかけ離れた姿であり、

「プライド」をもって働いていくにはありえない姿である、と考えられるかもしれないが、

そうして慎ましく生活を送っていくのも、この「フラット化する世界」では「あり」かもしれない。