うーん。つらい。

 とにかく「のほほん」とここまで生きてきた私にとって、

自分の受けてきた「教育」なるものが、全て無駄だったのではないかと思えるほどだ。

英語もできなければ、コンピュータを上手に扱う技術も無い。

おまけに、誰かと競争するなんていうのは、ほんと勘弁してください、ってぐらい嫌いだ。

 「教育を受けてもその能力を発揮する場が無かった人々が、技術革新によって

大量に市場競争に参入するようになった」と著者は書くが、能力を生かす場が

これだけ保障された社会に生れ落ちた私のような人間は、まったく理解できない。

むしろ、なんでこんなに僕には「才能」が無いのだろう、と始終悩んできた。

 ここで思う。結局、資本主義社会というのは、市場競争で勝ち抜ける「個人」しか、

受け入れてはくれないのだろう。私のような「才能」が無い、なんていう悩み、

村上春樹の小説でいう「いたって普通」な僕、というのは、人生の目標を

<資本主義世界で勝ち抜く>ということに設定しなかったのが悪いだけで、

目標さえはっきりしていれば、英語を勉強し、コンピュータの操作に習熟することだけが

「正しい人生」のあり方であり、それ以外は「間違った人生だ」といわれてしまうのだろう。

 文学を大学で専攻している私としては、真っ先にこうした「人生観」を否定しなければならないし、

文学というのは、そうじた「正しい人生」のほかにも無限に人生の選択肢があることを示し続けるために

あるのだと思っている。石川忠司村上龍の小説を、「お説教になっている」と批判するのは、

村上龍の人生観が、どうしようもなく資本主義的であることを示唆している。

 ただし、私はこんなことを書いていながらも、某予備校に来春から勤務する身として、

子供達には「これからはグローバル社会で生きていかなきゃならないんだぞ」なんて、

葉っぱをかけ、やる気にさせているんだろうなぁ。