「老人」の定義、および「老人」的な生活について

 ひとはいつ「老人」になるのだろう?
 
 父方の祖父、両親、それと私の四人が、一つ屋根の下で暮らしている。

両親は働きに出ていて、平日の昼間家にいることはない。

一方私は大学4年生で、かつ卒論もほぼ書き終わり、

単位も全てとってしまっているので、必然的に家にいることが多く、

それゆえ祖父と家に一緒にいる時間が長いので、祖父の行動をよく観察している。

 その観察の結果分かったのは、2つのことだ。


とにかく私の祖父は良く食べる。私以上に食べる。

その食べっぷりたるや、「食べない」ということ、「食べられない」ということに対して、

なにか恐れでも抱いているんじゃないかと思うぐらいだ。

特に暑い日や寒い日が続いた日などは、その傾向はますます顕著になる。

老人の身体は、若者の身体より敏感にできているのだろう。

「ここを乗り切らなければならない」となったら、

自分の中の「食に対する意欲」を総動員してきて、食べ物に対峙する。

そのさまは、さながら格闘技でも観戦しているかのようだ。

例えばとんかつに食らいつくさまなどは、野生のライオンもかくや、といった具合である。


 そして二つ目の話題だが、これを論ずるのは慎重を要する。

「楽しみ」というのは失礼かもしれないが、高校野球を朝から晩までテレビ観戦している祖父が、

知人の死の電話を受け取ったときの「いきいき」した感じといったら、これはなんとも形容しがたいものがある。

テレビをボケーっと見ていたときとはうってかわって、

単調な人生に一つの光明が射したかのような感じになる。

 人は自分が何かに必要とされていたり、何かに参加していなければ苦しいものだ。

かくいう私も、バイトもせず、学校にも行かず過ごす毎日は、正直言って、

バイトもして、学校の試験に追われていた日々よりつらい。

 この「つらさ」は、人に必要とされていない、自分にやるべきことなんてない、ことからくるつらさだ。

だから、父や母が仕事の愚痴を言ったりしているのを聴いていると、その実けっこう「いきいき」していることに対して、

一つや二つ皮肉も言いたくなる。

 両親にしてみれば、一日中家にいて、何してるんだか分からない私や祖父のような存在は、

「邪魔」というか「暇人」というか、そんなものでしかないのだろう。

 しかし、祖父だって定年で退職するまではずーっと働いてきたのだし、

私だってこれまで試験に追いまくられ、就職活動が終わり、いよいよ卒業という段階を迎えるまでの、

ほんの猶予期間にいるのだ。

 ただ、そう強弁したところで、この社会は「暇人」に対して、暖かな視線を送ってはくれない。

それはわたしの思い違いなのかもしれないが、正直私はいまの状況がつらくて仕方ない。

毎日Tシャツを汗びっしょりにして帰ってくる母を見ると、いくら私が家で何冊本を読んだと自己弁明したところで、

なんだかむなしさしか感じない。

 このむなしさはなんだろうか?

 祖父もこのむなしさを感じているのだろうか?

 それだったとしたら、ただただ感服するしかない。

祖父は85歳だ。今のような暮らしを、25年ぐらい送っている。

祖父の気持ちやいかに!