「他者」への想像力

 加藤典洋が、「他者への想像力」が欠けているとして小説を批判しているのだが、
果たしてそれは、妥当な批判だったのか?

 普通に考えて、西村賢太小谷野敦の小説が「他者への想像力」を欠いているからと言って、
それが直ちに作者本人の「他者への想像力」が欠けているということにはならない。「他者への想像力」
を欠いた小説を書くことによって、そのグロテスクさ、というより、グロテスクでしかありえない
人間のありようを描いたというところに、二人の小説の価値はあると思う。

 「他者への想像力」へと配慮した小説は、政治的には正しいのかもしれないし、
それは読む人の癒しにもなる。「そうだ。自分勝手に何でも考えるんじゃなくて、
相手が『本当は』なにを考えているのかということもきちんと考えなければいけ
ないんだよな」という風に。そして、そこに「人類愛」だのなんだのという言葉
をもってくれば、互いが互いに配慮した人間達のあるべき姿なんかを、思い描く
ことも可能だろう。

 しかし、だ。問題は、誰もが日常的に、いちいち「他者への想像力」なんて
持っちゃいないってことだ。そもそも、一番「他者への想像力」を持っているのは、
加藤が(たぶん)批判しようとしている「ストーカー」のたぐいではないのか?
やつらほど相手のことを思いやり、また「想像」している者もいないだろう。
「あの子はオレをことを無視したり、気づかないフリをしているけど、
本当は俺のことを好きなんだ、いや、今は好きじゃないかもしれないけれど、
そのことに気づいていないだけなんだ」なんて始終考えている「彼ら」のほうが、
よっぽど「他者への想像力」をもっていやしないか?

 「他者への想像力」なんてのは結局、その人が他人からどう思われたいかとか、
何を望んでいるかということを考えてやるぐらいの意味しかない。しかし、そこまで
「他者」の欲望(ぶっちゃいえば自分勝手)に付き合う必要なんてあるのか?

 なんだかそれって欺瞞じゃないか?じゃあ、そうして批判される「彼ら」の
想いは誰が救い上げてやるんだ?「ストーカー」が悲惨なのは、「彼ら」の想い
(それは社会では妄想として、危険な思想として認知されてしまう)が、誰からも
理解してもらえないことだろう。

 小谷野が「恋愛弱者」は救われなくていいのか!(といったいたかどうか若干不安だが)
というとき、「ストーカー」の被害者には社会的同情が集まるにもかかわらず、
そうした「彼ら」の側は救われないのはなぜなのか、ということだったのではないか?
被害者の「悲痛な」思いは「分かる」のに、「ストーカー」にならざるを得なかった「彼ら・彼女ら」
の「悲痛な」思いは理解されないのだ。

 なんだか分からなくなってきたのだ、このへんで。