「分からない」ことに快楽を見出す生徒達

 最近家庭教師を始めて、その生徒がしきりに

「分からない、分からない」と嘆いている。

「周りの期待に応えられないのがつらい」と訴える。

 ここで思うのだが、その生徒は、実は「分からない」ほうが、

自分にとって都合が良いのではないか、ということだ。

 「弱さ」は人の同情を誘うが、「強さ」は人の反感や期待を背負うだけで、

むしろ「強さ」のほうが、個人にかかる負担は大きくなる。

 「弱さ」を示す人間は、

「がんばればお前だってできるんだ」とか、「勉強なんかそんなモンだよ」なんていってくれるのを期待し、

今の自分を否定されているのではないことを確認し、満足する。

周囲の人間が、「強い」個人より「弱い」個人のほうをかまってくれることに、本人はうすうす気づいている。

そしてそのことを利用して、今の「分からない」自分を、「分からない」まま肯定してくれる人を探す。

だけど、それじゃだめだろう。

ここで先生が教えなければならないのは、

自分で解決しなきゃならないことを、学ぶ絶好の機会なんだということだ。

それまでは、親なり先生なりが助けてくれたのかもしれない。

でも受験ってのは、最終的には全て「自己責任」の世界だ。

「強い」人間ってのは、「良い成績」をとることで、周りの期待と反感を一身に背負うことで、

自己を成長させていく。