「分かりやすく」書くこと②

 「分かりやすく」書くことの問題をいままで考えてきたのであるが、
自分でも誤解してきた節があるので、ここでひとつこの問題の前提を問い直しておこう。

 1.「分かりやすい」表現とは、「分かりにくい」表現を易しく言い換えたものなのか?

 そうではないだろう。

 仮にある人の頭の中に「分かりにくい」考えがあったとする。普通私達は、その「分かりにくい」考えが
頭の中で「分かりやすい」言葉に〈そのまま〉移し変えられて、私達の前に提示されるものだと思っている。
 しかし、先人が教えるとおり、「分かりやすい」文章は、「分かりやすく」書き換えられたそのとき誕生する。
言い換えれば、「分かりにくい」考えというものは、それが「分かりやすく」言い換えられたと周囲に認知されたとき、
その結果として事後的に発見されるものだ、ということだ。

 2.「「分かりにくい」事象を「わかりやすく」すること自体相当その事象に精通してないと無理な話だが。「分かりにくい」事象を「わかりやすく」説明できるかどうかが言論やる奴のスキルだと思うんですが。」

 前に私はこのように批判を受けた。

 この人の考えを延長すると、「分かりやすく」説明できる人は、「分かりにくい」ことに精通している「凄い」人だという認識を生み出す。しかし、「分かりにくい」考えとは、それが「分かりにくい」がゆえに誰にも理解されない可能性を含んでいる。ぶっちゃけていえば、「分かりやすく」表現できなければ、そもそも「分かりにくい」考えなんて存在しないも同然なのだ。それゆえ、「凄い」と思われる人も、「分かりやすく」表現できて始めて、その裏に私達が容易に理解し得ない「分かりにくい」ことを蔵しているという意味で「凄い」ということになる。
 しかし、その「分かりにくい」考えというのが、本当に「凄い」のかどうかは、正直言って分からない。むしろ、「分かりやすく」言い換えられたもののほうが、「分かりにくい」と想定されている考えよりも、よほど意味あるものだということもある。

 3.氷山の一角としての意識、その下に広がる広大な無意識

 このことをフロイトの図式を用いて考えてみると、見えているのは「氷山の一角としての意識」にあたる部分であり、そしてこれが「分かりやすく」表現された部分ということになる。一方「分かりにくい」部分とは、「その下に広がる広大な無意識」にあたることになろう。問題はもちろん、「無意識」は見えないがゆえ、本当にあるかどうか分からないということになるだろう。


 4.なぜ人は「分かりやすく」語ることを欲するのか?

 こうして3の問いに答えることができる。「学者」さんなんかが「分かりやすく」表現したいと望むのは、たとえば「先生の研究を分かりやすく教えていただけますか?」なんていわれることで、「分かりやすく」表現される以前の「分かりにくい」「難解な」考えがあたかも存在するかのように読者や聞き手に想像してもらい、「凄い」人なんだなぁーなんて思われたいからではないか?