読者とは誰か?

 小森陽一『心脳コントロール社会』を読む。おもしろいのだが、こういう本を読んでいつも感じるのは、こうしたことだ。

 1.大衆メディア(新書)を使って、大衆メディア(テレビ)を批判するのはどうなのか?

 2.「騙されるな」というが、それでは「騙されていない」状態がより幸せなのか?

 3.「騙されるな」というが、よけいなお世話なんだよ。

 まずは「2」から。

 映画「マトリックス」が衝撃的だったのは、「真実」の世界のほうが、「マトリックス」によって幻視させられていた世界より「悲惨」だったということではなかったか?いくら「騙され」ないようにといったところで、そしてそのことへの危機感をあおったところで、すくなくとも今のままの日常が、それほどの破綻もなく過ごせるならば、いちいち「真実」に目覚める労を厭う人間なんていないだろう。
 もちろん、そうした「怠惰」な態度を批判したいのだろうが、例えば私のアルバイト先の上司は、肉体労働かつ頭も使わなきゃいけない仕事で、とてもじゃないが「真実」に目覚められるような勉強の時間なんて取れそうもない。しかし、私はそんな上司を尊敬している。

 ここで「3」とも絡むのだが、以前にも書いたとおり、フェミニズムの敵は「家父長制社会」を存続させる男性、およびそれに唯唯諾諾と従う女性である、と私は理解している。そこで、「女性」のほうの問題である。
 私の母は、典型的な「家父長制」下の女性である。(父方の)祖父、父、兄、私の男性4人に囲まれ、炊事洗濯その他の家事を、ほぼ全て一人でこなし、さらにパートの仕事までやっている。大学に入ってジェンダー系の学問に触れ、そんな母の境遇にいまさらながら気づき、できるだけ家事を手伝っている。そして、その家事を手伝う中で母と一緒に話をして気づくのは、母が自分のやってきたことに誇りを持っている、という事実であった。
 家族の誰よりお前を愛している。そうしたメッセージを、母の発言の随所に感じるとき、私は母が「家父長制」の下で、母なりに自分の人生を充実させてきたんだな、ということだ。全ての女性がそうだとはいえないだろうが、他の人生を歩むより、「家父長制」下で過ごした人生のほうが、たとえばバリバリのキャリアウーマンとして過ごすよりも幸せだったかもしれない、そんな風にも思う。
 母は、フェミニズムなんて知らない(と思う)。「家父長制」なんて言葉も、どこかで聴いたことはあるだろうが、意味なんて分からないだろう。しかし、それだからと言って、母を批判することなんてできない。なんせ、そんな母の努力があったからこそ、今の私がいるのだから。そして本人にしてみれば、それこそ「よけいなお世話」だろう。

 そして「1」である。
 「分かりやすく」書くことにも関連するが、大衆メディア批判を大衆メディアを使ってするという構図は、これまでも繰り返されてきたことだが、やはり「なんか変」である。そして、こうした書物はたいてい「分かりやすく」かかれている。そして、ここで「なるほど」ですめばいい。
 すめばいいのだが、こうした「分かりやすい」書物を読んだ人間は、自分でも分析なり何なりをしたくなってくる。「分かりやすい」書物で仕入れた生半可な知識を使って、「自分なり」の見解を述べるようになる。
 問題は、この「自分なり」の見解である。「分かりやすい」書物を読んだ後、さらに自分で興味を持って勉強が進むのなら良いのだが、普通そんなことにはならない。「分かりやすい」書物で仕入れた知識、および語彙の範疇で物を考え、「自分なり」の意見を声高に叫ぶことになる。これがおそらく、「一億総評論家」時代を生んだ実態だろう。私はこのような現状を頼もしく思っている。電子メディアその他で沢山の人が「意見」を述べられるようになったし、私もその一人だからだ。
 ではそうした多数の「評論家さん」を生んだのは誰だろうか?いうまでもなく、「分かりやすい」書物を書く人たちである。ただここにきて「変」なのは、そうした「評論家さん」を生んだ「真の?」評論家の方々が、そうした「評論家さん」に憤りを感じている、という事実なのだ。例えば「田吾作」「亜インテリ」「愚民」などと形容詞、中途半端な知識をもって物言う「大衆」を嫌悪しているようだ。しかし、そうした「評論家さん」に本を売って、金を儲け、さらなる「評論家さん」を再生産しているのは、「分かりやすい」本を売っている「真の」評論家達ではないのか?

 私は自分の意見がたいした知識に裏打ちされていない稚拙ものだということは承知している。しかし、素人の発言にだって、100の中にも1ぐらいは「誰か」に届く言葉があるのではないか、そう思うのだ。

 誰を「読者」として想定するのか、それは難しい問題だろうが、自分の売った本が「亜インテリ」や「愚民」を生んだからと言って、それを批判したり嫌悪したりするのはおかしいと思う。そうした私のような人間達が、少しでも自分の頭で物を考えようとなった時代を、喜んで見つめるのが、風通しのいい社会を生むように思う。