同じ書物に名前が掲載されるとは?

「宮台さんの文章を理由にジェンダー系の学問に問題があるみたいにいわれるのは困ります。」とおっしゃいますが、私はそんなこというつもりはありません。私が言いたいのは、『バックラッシュ!』という雑誌の趣旨に賛同し、キャンペーンブログまで熱心に運営しているかたであれば、その雑誌にあのようなインタビューが掲載されている「事実」をきちんと考えるべきだ、そういっているだけです。私はジェンダー系学問を問題視する考えなんてさらさらなく、むしろこれだけ興味を持っているからこそ、冒頭から読者を限定し、間口を狭めるようなことはしないほうがいいのでは?それについてどう思うのですか?とたずねているだけです。同じ書物に名前を掲載するというのは(さらにホームページも運営していることも含め)、それぐらいの自覚を持つべきなのではないか、そう私が考えているだけの話で、私のほうがただ単に「世間知らず」なのかもしれません。

 それと、「『どうせ関心のある人にしか読まれないという開き直りがある』という罵声」といいますが、私は「罵声」を浴びせるつもりなんてありません。私が「開き直り」ということで言いたかったのは、『ブレンダと呼ばれた少年』に関する論文の中でいわれていることを私が読んだとき(『バックラッシュ』306p)、生物学的決定論でもなく、社会・文化的な決定論でもなく、それを主張する両者がうまく歩み寄りをできたらいいと思い、そしてそれが難しいからこそ、「中立」的な考えをできる理科系の人や文科系の人を集め、より発展的議論ができたらいいなと思っていて、しかし、それが分かっていながらしていないところに、「どうせやってもねぇ」的な「開き直り」を感じてしまう、というだけです。

 たしかに議論は平行線をたどるように思いますし、極論を言う人間に正直辟易することもあるでしょう。ただ、私は「大衆」としてここでは意見を述べていて、「大衆」としての私は、とりあえず「分かりやすい」答えを求めて『バックラッシュ』という書物を購入しました。つまり、生物学的決定論でもなく、社会文化的決定論でもない、「第三の道」のようなものが、理科系の生物学者なども交えて議論されているのではないか、と思ったのです。しかし、その点は「いかような議論もなされうる」といった形で、なんとなくやり過ごされているという感じが残ったのです。そして『ブレンダの呼ばれた少年』の「本当の」悲劇はうんぬんと、話がどうも違う方向に行っているように思えました。あくまで私が議論すべきだと感じるのは、両者の歩み寄りに関してであり、「悲劇」の話とは別の問題だと思うのです。

 ここでこれ以上二人だけで議論をしていても、私の勉強不足もあってなんとなく生産的でない感じがしてきたので、逃げるわけではないですが、打ち切りにしたほうがいいような気がします。自分から仕掛けておいてなんですが、正直ブログという媒体が、これだけ社会に開かれているという可能性に無頓着であったせいもあります。その意味で、これを機会に、もっと多くの人が、『バックラッシュ!』という書物、およびジェンダー系の学問に、さらなる関心を寄せていただければいいと思います。その点だけでも、私が問題定義した価値はあったのでは?

 お忙しい中これだけの回答を頂いたことに感謝します。私の「暴論」が、何らかの形でこれからの活動に生かせていただけたら幸いです。「匿名」の第三者は、これで退くことにします。「感じる」とか「思う」とかばかり使って卑怯な自分に辟易し始めましたので。