「分かりやすく」書くこと/小谷野敦が孤立する理由

NHKよ。いったいどうしたんだ。

昨日の爆笑問題の番組で、ところどころに差し挟まれた、

あの猿の(意味不明でなんの面白みもない)映像は何なんだ?

NHKは、自分が猿だということを暴露したかったのか?

まぁ、それは措いといて…。

太田光が、「分かりにくく」書く学者に対して文句を言っていた。

前にも私は書いたが、そもそも「分かりやすい」文章とは何か?

私達が「わかりやすい」と感じてしまうような文章が、

なにか「大事な」ことを言っているとは、どうしても思えない。

だって、私達のような「バカ」に「分かりやすい」って、「たいしたことない」としか思えないもの。

そもそも、私は一部の「知識人」たちが、一般向けに「分かりやすい」書物を書いているせいで、

たいして「頭のよくない」人間たちまでが、2チャンネルその他で、

(「分かりやすい」思考と「分かりやすい」言葉で)勝手な暴論を繰り返すようになったのではないかと思う。

「分かりやすい」言葉によって表現されている事柄は、

その「分かりやすい」言葉による思考回路を生み出し、ということはつまり、

頭脳の強度が、「分かりやすい」言葉になじんでしまう。

「分かりやすい」言葉に馴染んだ頭は、当然「分かりやすい」思考しか生まない。


私達が「わかりやすい」と感じるのは、それが私達の視点に寄り添って書かれているからで、

書き手にとって、それは一種の妥協の産物でしかない。

色々な、言葉になりがたいことを切り落とし、無害で当たり障りのないことを書いた結果が、

「分かりやすさ」となってあらわれてくる、ということだ。

もちろん、例えば新書なんかで、一般の人に学問の成果の一部を「分かりやすく」説く場合はいいだろうが、

学者というのは、「分かりやすい」世界では表象し得ない事物を扱うことも、仕事の一部である。

言葉で表象し得ないが、けれど大切なこと。

それが何であるのかはまだ分からないけど、きっと皆にとって大事なことがある。

もしくは、自分にとって大事なことがある。

そのことを踏まえたうえで、「分かりやすさ」の議論はするべきではないだろうか?


今日はもう一つ。

何故小谷野敦は孤立するのかについて考えてみたい。

荻上チキは自身のブログで、「文学研究においてはとても

参考になる議論を展開している方なので、文学研究出身の

私にとっては尊敬すべき研究者というイメージがとても強い。」

と小谷野を評するが、それは小谷野の「頭がよい」からなのか?

そうではないだろう。

例えば「バックラッシュ!」の中の鈴木謙介による以下の文章を見てみよう。

  むしろできる限り異なる意見の人と主張を闘わせることなく、同じような意見の人びととの

 繋がりを確認するために、政治的立場が「ネタ」としてもちいられているのである。(0122p)

こんなことをしたり顔で言って「今」を「解読」した気になっている著者の底の浅さに

驚きを禁じえないが、多くの人は鈴木の文章から、鈴木は「頭がよい」と思うだろう。

しかし私が思うに、鈴木の文章には、なにかがありそうで、なにもない。

というか、こんな分析に意味があるとはとても思えない。

「ネタ」とか「ベタ」とか、そんな言葉で分析される、こちら側の身にもなってほしい。

それに比べると、小谷野のスタンスは一貫してクリアーなのだ。

それは、小谷野が「事実に就く」ことを忠実に守っているということだ。

小谷野の学問的業績は、この姿勢によっている。

もし荻上チキが小谷野の学問的業績を評価するならば、

この小谷野のスタンスをまず評価すべきなのだ。

それゆえ、小谷野が小倉著を執拗に追及するのも分かるだろう。

小谷野は、小倉が『ブレンダト呼ばれた少年』によって明かされた「事実」に、

「学者」としてきちんと向き合っていない点を指摘しているのである。

別に小谷野は、反ジェンダー・フリーでも、反バックラッシュでもない(と思う)。

あくまで「学問」のルールを守りなさい。そういっているのである。

現在はしかし、鈴木のような、何年後かには「トンでも」説として切り捨てられかねない「思想」的文章のほうが、

なんとなく「高級」だとみなされているのだろう。

それゆえ、「バックラッシュ!」という雑誌自体も、「一般向け」に書かれているといいながら、

たとえば宮台の議論にしても斉藤環の文章にしても、

私のような「バカ」にとっては、すでに「ツライ」。

高級な「思想」はいいから、事実に基づいた議論を展開してもらいたいものだ。