池田雄一『カントの哲学』

 池田雄一『カントの哲学』からの引用。

  …そうなると、くだらない些細な出来事からドミノ式にというか雪崩式に、
  十二人死亡、三千七百九十四人が重軽傷という大規模なテロ事件に至った
  ということになる。
   おそらくオウム真理教団による一連の事件がおぞましく感じられるのは、
  こうした「うっかりミス」の連鎖が、最終的に無差別テロにいたったから
  ではないか。(72P)

 自分の死の原因が、「くだらない些細な出来事」であることに、私が耐えら
れるだろうか?「死んじゃったら、自分の死んだ原因なんて関係ないんじゃな
い?」という意見もあるだろうが、では、自分の最も親しい人であったらどう
だろうか?

 誰かによって、身近な存在が死に至らしめられたとき、そのやりきれなさを
埋めるために、なんとか犯人の「動機」を知りたいとおもう。しかし、多くの
場合、そんな「動機」なんてない。事後的に色々と作られることはあるだろう
が、たぶんほとんどのケースで、「なんとなく殺しちゃった」というのが本音
だと思う。

 そうしたリアルな認識に立たなければ、犯人を適切に「裁く」ことなどでき
ないと思う。下手に「動機」を知りたがるから、逆説的に容疑者は「無罪」を
勝ち取ることも、ありうると思う。「動機」があるはずなのに、明確な「動機」
が見つからないのであれば、それは精神的に何らかの「欠陥」があるからだ、
という具合に。



もう一箇所。

  よく巷で売られているような、写真つきのレシピ集がつまらないのは、構想
  力の振る舞いがその映像によって制限されてしまうからだ。(160P)

 そうなのである。ただ、私が考えるに、「写真つきのレシピ集」(および単なる
レシピ集)の問題点とは、料理することの本質が、手順どおりに、見栄え良くでき
ことであると考えられていることだと思う。
 もちろん、一人暮らしなら問題ないだろう。好きなときに、好きなものを作って
食べればいいのだから。腹が減っていなければ食べなければいいし、誰かの好みを
気にすることもない。
 しかし、実際の家庭料理を作る場合には、そんな自分勝手は許されない。家族が
朝の6時に起きるとすれば、まず料理を作る自分は5時半までには起きて準備をし
なければならない。自分が食べたくないからと言って、起きないで寝ていては、朝
食を準備することができないからだ。
 昼食や夕食も同じである。自分が食べたくないからと言って、決まった時間に、
食事を取ることを習慣とする老人や子どもがいる家庭では、その時間にいなければ
ならない。どんなに遣り残したことがあろうが、どれだけ遠くに言っていようが、
食事を待っている人のために、「そこ」にいなければならない。
 ここで問題になるのは、「時間」である。毎日三食の食事は、必然的に、それを
作る人の時間を拘束することになる。作ってもらう側は、それがあまりにも当たり
前であるだけに、その作り手が、いかに自分の時間を削っているかなんていうこと
には、気づきもしない。