石原千秋先生新刊

石原千秋先生の新刊『国語教科書の中の「日本」』を読み終える。

国語教科書の「中の」日本と言いながら、実質国語教科書の「外」の無意識をもあぶり出すという離れ業を見せた、素晴らしい書物です。

(気になったところ)

実際、国語教科書の中の「日本」を扱ったのは第一章がメインで、その他の章では、テクスト分析を用いて、教科書を批評するスタンスを取っている。

例えば、こんな箇所。

国語教育では「メディアは「現実」を作り上げる」といった凡庸な結論を示す以外のことはできにくいのかもしれない。そもそも、メディア・リテラシー教育が可能かどうか、根本的なところで疑問がある。と言うのは、「メディアは「現実」を作り上げる」として、では現実的な問題として「現実」に関する正しい情報をどこで得られるのかという問題があるからだ。つまり、「これが現実である」と「現実」を確定することがそもそも可能なのか疑問があると言うことだ。(159p)

 上記の議論を果たして、何人の小学校教員や中学校の教員ができるのか疑問である。さらに言えば、例え理論を持っていたとして、それを生徒に「正しく」伝えられるのだろうか?もちろん、「手紙は正しい宛先に届く」と言われればそれまでだが・・・。

 次に、こんな箇所。

 ただし、悲しみの社会化は代償を伴う。得るものが大きいほど失うモノも大きい。
 人は固有の悲しみを抱えていると思っている。それを「あのときは悲しかった」という言葉にすることは、「悲しみ」を社会に開くことだ。自分の悲しみを、言葉という形の社会に開くということだ。自分にだけしかわからないはずの「悲しみ」を人にわかる形にしてすまうわけだ。それは、「悲しみ」から自分だけしかわからない固有性をはぎ取る行為だと言っていい。固有の「悲しみ」は、「悲しみ」の輝きを失って、社会を流通しているあのありきたりで通俗的で陳腐な「言葉」の形になってしまう。(188p)

 この「固有性」を社会に開くという理論を知らない教員が、圧倒的なのではないか?固有性を振り捨てて社会化する痛みに耐えるのは、大人であってもつらいことである。


(まとめ)

 石原先生の著書を読む度私は、果たして「先生」としての資格を持っているのかと、自問自答することになる。そして、もっと勉強しなければ生徒と対峙することができないと、気持ちを引き締めている。

 「所詮子供だから」とは、同期の仲間や先輩から言われることだ。しかし、「所詮子供だから」軽くあしらっていればそれで済むという話ではないはずだ。子供だからこそ、我々がこころと知性を尽くして向き合わなければ、貴重な国語教科書という教材を、100にも0にもしてしまう。

 この著書を読んで何も感じない教員がいるとしたら、それはよほど鈍感か、もしくは、「教員」という立場に立って自分の意見を押しつけるただの「バカ」かしかないだろう。