言葉を撮る

言葉を撮る―デリダ/映画/自伝

言葉を撮る―デリダ/映画/自伝

「言葉を撮る」

この言葉が好きだ。

言葉は、

聴くものであり、

書くものであり、

感じるものであり、

同時に、

撮るものでもある。


 「撮る」といったときに私たちが思い浮かべるのは<カメラ>です。

そして、「カメラ」に対して、私たちが期待する機能とは、

対象を映し出すことです。

では、「言葉を撮る」と言った場合、その「撮る」機能を担うものは、

なんでしょうか。

それは、他ならぬ「人間」、私たち自身のことでしょう。

私たちは、「言葉を撮る」

ただし、それは<カメラ>のようにではありません。

デリダがこれまで主張してきたように、

言葉は常に「誤配」されるのですから、私たちが映し出す「言葉」は、

つねに変形され、ねじ曲がった形になっています。


この、「変形」や「ねじ曲がり」という語感から、マイナスのイメージを受け取るとしたら、それは間違っています。<カメラ>だって、対象を「正確」に「そのまま」写し取っているありません。

幼少からの教育によって、<カメラ>の機能は、映し出すものを「正確に」「そのまま」映し出すことだ、と教えられていますが、それは、事実を正確に伝えているとはいえません。<カメラ>は先ず、「何を写し取るか」という意図があって、初めて手に取られるものです。つまり、撮り手の「意図」無しに、<カメラ>が使用されることはなく、・・・。