内田先生のポストモダン性

 仲俣さんが内田樹先生のポストモダン的な批評的態度を批判しているが、

それを自分の体験に沿って検証してみることにする。


 恥ずかしい話だが、つい先日女性に振られた時、

その女性はこんなセリフを言っていた。

 「あなたの望む答えを言えない」と。


 この返答はなかなか「深く」て、そういわれて家に帰った後、

考え込んでしまった。


 問題にしたいのは、「あなたの望む答え」という部分である。

私が告白した女性は、「あなたの望む答え」(つまり「当の私が

望む答え」)を既に「知ってい」て、それを言うと私が傷つくと

「分かって」いるから言えない、と言うのだ。


 これは、私のことを「気遣って」くれているのだから

「感謝」すべきことであると考えることも出来るし、

全く逆に、残酷な返答でもある。


 それまで私は、その女性と様々なことについて語り合ってきた。

そのたびごとに、その女性は、なんらかの「返答」をしてくれていた。

ここで、今回の彼女のセリフを重ね合わせると、今までの言葉が全く

逆の意味を帯びてくることが分かる。

 つらいときや苦しいとき、人は「自分が望む答え」を求めている。

自分の意に沿わないことを言われても、かえって気分を害するだけでは

ないか?「相手が望む答え」を答えていても、その人間は変わらない。

その人の自己愛を慰撫するだけで、なんの効果ももたらさない。

 予備校という現場で働いていると、そのことがよく分かる。

子どもと付き合っていて痛切に感じるのは、

その子どもがもっとも言って欲しくないことを、

愛を持って言ってあげられるかどうかで、その子の一生が変わってしまう

ということだ。

 予備校をまるで「第2の家」であるかのように勘違いして、なれなれしく

している生徒というのは、その場では「自分」という者を脅かされない

ことを「知って」しまっているからだ。

 もちろん、生徒が「言われたくない」ことを、何でもかんでも言えばいい

というわけではないが、生徒のためになると心から信じラれることであれ

ば、あえてそれを言う勇気が必要だろう。

 
 内田先生のロジックだと、ここまでの話を組み立てることが出来るの

だが、果たしてその「言われたくない」ことを言えるだけの覚悟を

出来るかどうかと言ったら、それを引き受けるだけの精神的な強さを、

また、職業に対する忠誠心を「若者」というのは少ないのではないか?

 内田先生の「若者批判」というのは、自分のロジックが作り出した

物語が、これまでの「無責任」な大人に可能だった職業を、想像以上に

ハードルの高い職業にしていることに気づいていない。