大学受験の国語力とは何か?

つまり、出題者は本文の文脈把握能力を見たいだけであって、本文の解釈や理解を見たいわけではないということだ。それが、四十字という字数制限から分かってしまう。これが、「国語力」なのだろうか。字数制限が出題者の求める解答のレベルを示している。いや、字数制限が出題者のレベルをみごとに表してしまうのだ。(224p)


『秘伝 大学受験の国語力』(石原千秋著、新潮選書)からの引用。

 石原先生の指摘から考えるとこういうことになる。
すなわち、私たちが一般に「国語力」と考えていて、実際に試験において図られているのは、
あくまで出題者のレベル(知識、教養、やる気、読書量、などなど)に規定されている。

 『教養としての大学受験国語』(ちくま新書)に「衝撃」をおぼえて本書を手にとった
読者は、少々面食らうことになるだろう。なぜなら、本書には、『教養』ほどの「お役立ち度」はないからだ。

 『教養』にも確かに、各問題文や設問への「批判」が書かれていたが、それは最小限度に
抑えられていて、受験に使える「参考書」としての比重が大きかった。

 それに比べ本書は、現行の大学受験国語に対する辛らつな批判が前面に出ている。
それゆえ、「参考書」としてのお役立ち度は、前著より下がっている。

 なぜだろうか?

 なぜわざわざ石原先生は、読者が期待する「石原千秋」を裏切ったのだろうか?

 思うにそれは、もはや大学が生徒集めに血眼になっている現在、
こうした「毒舌」を吐ける教員が、石原先生以外にいなくなったからだろう。
また、石原先生の最近の著作を拝読して痛烈に感じるのが、
石原先生が実践の人であるということである。

 「相対化」の時代が過ぎ去った後に残ったのは、自分の言葉に責任をとらない
評論家の群れであった。「言語論的展開」以降の世界において、「言葉が全て」
であるはずなのに、実際には、言葉に責任をもたない世界が現出しているように
思う。

 ポストコロニアル批評やジェンダー批評は聴こえはいいが、そうした「思想」を
声高に叫んでいる「学者」は、どれだけ実践の人となりえているだろうか?

 一時期盛んに近代文学のキャノン批判をしていた「文学者」たちは、
自分の発言に責任ももてているのだろうか?

 石原先生は、そうした研究を参照しつつも、自らは常に実践の人であり続けている。
他の研究者が食い扶持のために血眼になって「古典の粗探し」をしているあいだ、
入試研究や大学教育の場で、盛んに発言を重ねてきた石原先生は、現在の文学研究の
退廃に耐えられないのではないか。

 本書を読んで戦慄すべきは、受験生ではなく、現場の教員である。

 「言語論的展開」が事実だとすれば、「本書の出版以後、大学受験国語は
野蛮である」といわなければならない。それが、大学教員の「倫理」だろう。