「正しさ」という思想

理屈はいつも死んでいる

理屈はいつも死んでいる

 この本のタイトルが書店で目に入ったとき、

「やられた」と感じたのを、今も覚えている。

 大学生の時に私は、理路整然と、論理的に正しい説明をすれば、

相手が納得するはずだ(しなければならない)と思っていた。

そのために、多くの書物を読み、考え、どうすれば相手を説得させられるのか

を考え続けていた。


 一言でいえば、「正しい」ものは受け入れねばならない、ということだ。

そして、「正しい」ことは、「どこか」にあるはずだ、と思っていた。

「哲学」や「思想」という言葉が、大学に入ったばかりの青年の眼に、

輝かしく映ったのも、そういった理由からだ。

 あれだけ難解な表現で、「もっともらしいこと」が書いてあれば、

何も知らない知的欲求に飢えた青年を誘引する要素は、ほとんど

出揃っていると言ってよいだろう。


 「論壇は搾取している」


 文化系トークラジオ Lifeの公開放送で、鮭缶以下略さんが

引用していた言葉だ。

 まさにその通りだと思う。

 「俺の言っていることが正しい。あいつは間違っている」

 「○○はこう言うが、それは違う」

 何度こうした表現に出会ったことだろう。

 そして、そのたびに私の「神」は変わっていった。

 誰が「正しい」のかも分からないまま、思想の波に翻弄されていた。


 文化系トークラジオ Life「運動」のPart8での外山さんの発言の

「つまらなさ」は、結局の所、「正しい」と感じてしまうからだと思う。

あれだけ型破りの人間が、理屈の上で「正しい」議論をしたとき、

その理屈は既に「死んでいる」。

 「正しい」と感じた瞬間にその議論が「死んでいる」と感じるのは、

「正しさ」には真実がないからだ。「だれか」には訴えかけるかも

しれないが、他の「だれか」を排除せずにはおれないからだ。

 その点、松本さんは最後まで、「おれはみんなを説得できると思う」

といっている。たぶん、「説得」なんてメンドクサイことをしなくても、

祭りのようにワーッと巻き込んでしまえば、理屈抜きで納得してくれるだろう、

と松本さんは考えているのではないか。