運動

 文化系トークラジオ Lifeの「運動」のPart3を聴いて、

ひとつ見えてきたものがあった。

 それは、「運動」をする側は、抑圧されているというアイデンティティーが、

「運動」をすることで解消されてしまうことを恐れているのではないかということだ。

 抑圧というのは、自己の存在を感じるために必要なものである。

例えば、体にとっての抑圧とは、背中が痛いとか腹が痛いということで、

背中や腹というのは、痛くならなければその存在を意識することはない。

 アイデンティティーも同様に、何らかの「痛み」があって始めて、

それが存在することを意識できる。そして、その「痛み」の快楽を味わってしまうと、

「それ」がない状態に耐えられなくなる。

 今回ラジオに出演していた松本さんや戸山さんのようなクレバーな人以外は、

結局「運動」を、アイデンティティーを感じるためのツールとしてしか考えていなくて、

それに参加することで自己を慰撫することにしかならない気がする。

 「運動」をすることで自分のマイノリティー性を確認し、隅っこにではあるが、

確かに存在している「自分」に満足するという構図は、今までの歴史でも繰り返し

行われてきたのではないか。

 「運動」に限らず、それを主導する人と、それについて行く人のあいだには、

無限の隔たりがある。文章や商品が、作者の手から離れた瞬間、いかようにも

解釈/使用されうるように、「運動」も、それに参加する一人一人に、様々な

思いが去来しているはずだ。

 そして、その中の一人が、いつか/どこかで「違和感」を表明し始める。

「こんなはずじゃなかった」と。「お前の考えはまちがっている」と。

 もちろん、「運動」を主導する人は、「お前の違和感なんか知らないよ」と

言うだろう。「お前はお前の違和感に従って、自分で運動を始めればいいじゃないか」と。

 しかし、その頃には決定的な亀裂が走っている。

 「運動」を主導する人に違和を唱えた人物を中心に、別の運動が巻き起こって、

「運動」を主導した人の意図とは違った方向に、「運動」が勝手に走り始める。

 主導者から離れた「運動」は、どこに向かっていくのだろうか?

「運動」の恐ろしさとは、ある一つの「運動」から派生した別の「運動」が

思わぬ方向へと走り出し、暴走し、悲劇や喜劇を生み出してしまうことだと思う。

「運動」の胎児が、親を喰い殺し、親の願いを裏切って牙をむくとき、

「運動」の可能性/不可能生は見えてくる。