なぜわたしは「運動」を信じられないのか?

  6月3日の文化系トークラジオ Lifeのテーマは「運動」。

 この「運動」というのは、何ともいかがわしい。

 このいかがわしさがどこから来るかと言えば、

 「運動」を指揮する者の「人間くささ」が、

 その「運動」を良くも悪くも規定してしまうためだ。

  例えば、あるロックバンドから一人のメンバーが脱退したとしよう。

 その時決まって言われるのが、「音楽観のちがい」である。

 ところがしばらくすると、その脱退したメンバーが

 覚醒剤で逮捕されたというニュースが流れる。

  この一連の騒動から分かるのは、そのメンバーが脱退したのは、

 「音楽観のちがい」などではなく、単に「ヤク中」をやっかい払い

 したかったからに過ぎないことが分かる。

  この例が示すのは、「運動」の挫折とは、指導者間の「思想上」の

 差異が浮き彫りにされたからではさらさらなく、「クスリをやってた」とか

 「女を取り合った」とか、そんなくだらない理由であるだ。

 私たちは、共産主義の歴史からも、そうした事例をさんざん見てきているので、

 もはや「運動」の有効性など、信じる気になれない。