自由の条件
茂木健一郎さんのブログから。
自分があることを感じている時に、
その事実を認め、受け入れることが「自由」の
もっとも大事な要素である。
(「クオリア日記」)
「その事実を認め、受け入れる」とは、一体どういうことだろう?
石川忠司は『現代小説のレッスン』で、阿部和重の小説の登場人物を評して、
日本語という「ペライ」言語を使って思弁的になった結果、単なる妄想野郎
に成りはてた日本の若者を描いていると述べている。
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精神分析の効用の一つは、それがたとえ事実と違ったとしても、
患者自らが「過去」に言葉を与えることで、自分というアイデンティティーを
立ち上げることができるという点がある。
過去を確かだと感じられない者が、自我など保てるはずもなく、
よほど強靱な哲学的ロゴスで武装していない限り、過去との連続性を確知できなければ、
「ぼくってだれ」になってしまう。
例えていえば、朝起きたときに、人は当然「今の自分」を「昨日の自分」と
当然のごとく同一視している。
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そう、思い出した。
子どもの頃、次の朝起きたとき、自分が違う自分になっていてくれたらと、
何度願ったことだろう。
当時の「違う自分になりたい」という願いは、結局の所叶わなかったわけだけれど、
この「叶わなかった」と感じる気持ちは、一体どこからくるのだろう?
このことは、図らずもアイデンティティーの不思議さを明らかにしている。
小学生の頃から見れば、明らかに「わたし」は変わっている。周りの人にたずねれば、
誰もがそのように言うに決まっている。
けれどわたしは、自分があの頃と<根源的に>何かかわったという気になれない。
もちろん、人生のターニングポイントというのをいくつか経験してきたから、
「あのときわたしは決定的に変わったな」と感じる地点というのはいくつかあるわけ
だけれど、それと同程度、いやむしろそれを上回るぐらいに、
「あの頃からわたしは変わっていない」とも感じられる。
これはわたしの未成熟ゆえなのだろうか?
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話が逸れた。
そう、言語の問題だ。
つまりこういうことだ。
自分の感じていることに、「間違った言葉」を与えてしまえば、
ネガティブな気持ちを芽生えさせ、そのネガティブな気持ちが、
自信の感情にいっそうネガティブな言葉を与えるというスパイラルに
陥ってしまう。
言葉の使い方には、慎重でありたいものだ。