なぜそれをグロテスクだと思ったのか。

 学校空間というのは不思議なもので、何の関係もないもの同士をひとつの教室に放り

込み、たまたま一緒の教室に居合わせることになった人間と友人関係を作り上げること

を強いる。

 もしかしたら隣の教室に、「本当は親友になったかもしれない友だち」がいたかもし

れないのに、「その」教室で偶然1年なり2年なり一緒に過ごすことになる同級生と友だ

にならなければならない。こんなストレスフルな環境というのは、他にないのではない

か。

 こんなことを考えながら学校生活を過ごしてきた僕にとって、会社はもっと、自由な

空気を吸うことができる場所であるはずだった。

 ところが、そうはいかなかった。むしろそこは、大学というより、高校の教室に戻っ

たかのような「息苦しさ」を漂わせていた。幸いこの年になって、自分が「孤立」して

いることに「焦る」ことはなくなったのだが、お節介は承知でいわせていただくと、

「お前らちっとは大人になれよ」だった。

 人事部の役員が「ちょっと用事で」教室を出て行くと、途端に「ざわざわ」となる

光景などは、授業中に「ちょっとプリントを印刷しに」教室を先生が出て行った途端に

「ざわざわと」おしゃべりを始める高校(中学)時代を思い起こさせるものがあった。

 大学時代は少なくとも、こんなことはなかった。これは、ある意味「1流大学」に

行ったがゆえの「効用」と言えるかもしれない。早稲田大学というのが、どれだけ

「1流」という名に相応しいのかは、若干の疑いがあるけれど、少なくとも私の知る限

りで、先生がちょっと席を外してぐらいで、途端に隣や周囲とおしゃべりを始めるよう

ことはなかった。


 ※早稲田大学は「1流」かどうか?これに関して考察する上で、興味深いエピソード

がある。

 石原千秋先生が「大澤真幸を知ってる人、手を挙げて」と言ったとき、400人近くい

学生のほとんどが手を挙げられなかった。これに対して、「所詮この程度か。ちなみに

『この程度』とは、2つの意味で言っています」と、石原先生はため息混じりに述べて

いた。

 僕の解釈では、「2つの意味」とは、1つは「大澤真幸も所詮この程度か」という意味

であり、もう1つは「早稲田大学の学生も所詮この程度か」という意味だ。<大澤真幸>

を知らないからといって、「1流ではない」と断ずることに異論がある方もいるかもし

れないが、少なくとも村上春樹の授業をとっている学生が、大澤真幸すら知らないよう

では、お先真っ暗だよな。


 話が逸れた。要するに、会社というのは、大学という選別機関を経由した上で、再び

雑多な人間同士が顔を合わせる空間であるということだ。そこでは、大学教育の成果が

如実に表れてしまう。人事役員が部屋を出た途端に「ざわざわ」とする者は、つまり

大学生活も高校の延長線上に「まったり」やり過ごしたという証拠であり、裏を返せば

高等教育機関の「呪縛」から免れたと言っていいかもしれない。

 逆に僕は、大学生活を通じて徹底的に<自分>を抑制するすべを身につけてきた。

ブルデューは「教育年限の延長という者は、2流のエリートに自分の2流性を納得させる

までにかかる期間のながさである」と言ったけれど、大学に入ったことで僕は、本を読

むことを通じて「2流」であることを思い知らされた。そして、「2流」である僕は、<自分>がいかに価値のない人間であるかをぐじぐじと問い続けてきたため、・・・。


   あーだめだ。やっぱり、話がまとまらない。


 何が言いたいのか、分からなくなってきた。まぁ、いいです。

 これ以上書くと、話がどんどん・・・。


     逸れていって・・・・・・。


 分かってますって。こんなこと書くと、「ワンくん」が自分の妄想を吐き散らかすだ

けのブログが増えて困ったもんだ、とかいわれちゃうんでしょ。

  って、こういうことを書くこと自体が、「へたれ」たるゆえんなのだろうが。

 しかし、そもそも、人に分かるように書かれるブログって、何なんでしょうね。

鏡を見るときの視線が、他者の視線と重なっていることは当然だとして(って、こうい

うこといっても、会社の同僚には全然伝わらないのだが)→こういう事書くと、そんな

こと知らなくたって人生生きていけるよ、なんて途端に切り替えされちゃうんだろうな

・・・・・・

 と、こんな風に延々と一人つっこみしていると、はっきり言って全然前に進まない。

でも、これはしょうがない。だって、大学の勉強というのが、延々と一人つっこみを

することだったのだから(僕だけ?)「これが正解」と思って意気揚々としていると、

すぐにそれを相対化する書物に出会い、その「出会い」に衝撃を受けていると、次には

その書物を批判する論文が目の前に現れる。

 こんな日々の繰り返しが、私にとっての大学生活だった。・・・・・・。

  ん?

 話は戻って、そう、友だちについて書こう。

 こんな大学生活を送っている僕だったから、当然友だちなんていなかった。むしろ、

「友だちとは何か」に興味があって、「友だち」っぽい人々を観察しては、「彼らは

本当に友達だろうか?」とか、「友だちっぽく振る舞ってるけど、なんだかつらそうだ

な」なんて考えていた。何とも鼻持ちならないやつである。

 でも、こうなるのも理由はあって、そりゃあさんざん友だち関係で苦労してきたから

ですよ。昔からこんなに冷めたやつだったら、どんだけ人生経験積んできたんだと、

再び一人つっこみを入れたくなる。

 なんて、またまた一人つっこみを入れて、話が進まなくなる。つまり、一人つっこみ

が多すぎて話が前に進まないのが、僕の欠点なんだな、ということが分かっただけで、

今日は良しとしよう。

 ・・・・・・。だめだだめだ。いっこうに元に戻らない。「戻らない」というか、

戻れない。それぐらい、僕にとって「友だち」というテーマは扱いずらい。結局のとこ

ろ、自分はもしかして、友達が作れないことに寂しさを覚えていたのではないかという

畏れから逃れられない。絶えずその問いを自分に投げかけている。

 友だちなんていなくていいじゃないかという自分がいる一方で、周囲からは常に、

友だちがいないお前は、社会性ゼロの役立たずだ、と言われている気がする。

 あー、まただ。また自意識の垂れ流し状態になってる。いかんいかん。

 でも、いいじゃないか、なんて正当化しちゃったりして。自意識の垂れ流しが「いけ

ない」なんて、いったい誰が言った?いや、たとえ言われていたとしても、そんなこと

気にするな。だってさ、寂しいんだもん。

 そう、結局寂しいんだ。友だちがいないことが。

 でも、友だちがいたって、寂しさは変わらない。新入社員の中には、mixiで情報交換

している人たちがいるらしいけど、いつも休み時間や昼食時間にいくらだって話す時間

があるだろうに、なんて僕は思ってしまう。つまりこれは、相手を目の前にして、「本

音」を言えないってことで、「目の前の「友だち」は、あくまで自分に「友だち」がい

るっていうことをアピールするために存在する肉体だけの存在で、「本当」にこころを

かよわせる「友だち」は、ネットの中にしか存在しないってことじゃないか?

 友だちがいることをアピールするために生身の身体が必要だとしたら、なるべく「上

等」な肉体であることが望ましい。それゆえ、選別が行われた結果、「上等」な肉体は

「上等」な肉体同士で集まり、「下等」な肉体は、「下等」な肉体同士で集まる。

 そこでは「中身」が問われることはない。そもそも、「中身」なんて端から誰も気に

しちゃいない。なぜなら、みんな自分にたいした「中身」なんて無いことをしっている

からだと思う。だって、これだけメディアを通じて「近頃の若者は・・・」や「自分なん

て無いんだから、自分探しなんて止めちまえ」と言われれば、「中身」を問うなんて

めんどくさいこと、誰もしなくなっちゃうよ。

 そんな無責任な言動の結果として、「若者」の間では、もはや「中身」は意味を持た

なくなってしまった。唯一価値ある「中身」とは、「友だち」として価値ある生身を持

った人間が、その生身に相応しいと周囲から期待された範囲での「中身」でしかない。

だから、「格好の良い」生身を持った人間は、それをいち早く察知して、周りが期待す

るよう自己形成を遂げていく。

 かくして「格好の良い」人間はますます「友だち」に恵まれ、「格好の悪い」人間は

ますます孤立を深めていく。