『海辺のカフカ』

小森陽一村上春樹論『海辺のカフカ』を精読する』(平凡社新書)について一言。

石原千秋『大学生の論文執筆法』(ちくま新書)のなかで、
ポストコロニアル理論とカルスタ理論が組み合わされれると、
批評が「学会版道徳の時間」の様相を呈して来るという指摘があるが、
小森の論を読んでいると、まさしくそういう感じがする。

たとえば、岡持先生が、大岡昇平の『レイテ戦記』を読んでいないと批判するところなど、
何で『海辺のカフカ』という小説(虚構)中の人物が、『レイテ戦記』を読まなければならないのか、
また『海辺のカフカ』という小説(虚構)の中に、『レイテ戦記』という小説が存在するとどうしていえるか、
などなど、突っ込みどころ満載なのだ。

小森のスタンスは、私がフェミニストに感じている違和感と同型的である。
フェミニストは、家父長制に唯々諾々としたがっている名もない女性たちを批判するのだが、
私には、フェミニズムなどには露ほどの関心も示さず、しかし私の成長を今まで見守ってきて
くれた母親を糾弾する気にはなれない。

夕食後、テレビを見ながらお菓子を食べ、一日の疲れを癒す母親に、
「本のひとつも読んだらどうだ?」なんて、どうしていえるだろう。
小森もおんなじで、『レイテ戦記』を読まない「愚民」の怠慢を指摘する、
あなたの立場って、いったい何なんですか?といいたくなる。

あくまで岡持先生は、岡持先生なりの苦悩、後悔を抱え、それを両肩に背負って
それまですごしてきたという、個別の人生を持っている。そして、それがこの『海辺のカフカ
という小説の「責任」をめぐる、ひとつのキーワードともなっているのだが、ここでそれには触れない。

批評理論は便利で、特にカルスタとポスコロ理論は、ポリティカリー・コレクトネスのバックボーンとして、
現在では大変影響力を持っている。しかし、これは最新の「理論」であって、いつでも新しい「理論」が、
「学会」の先端を行く可能性を秘めている。そうしたとき、今はポリティカリーにコレクトネスであっても、
それがいつしか「古い」考えだとされてしまうことだってある。耐用年数の短い理論を振りかざして
欠点を指摘するだけでなく、もっと有益な議論に、「理論」が使用されることを、私は願う。