『先生はえらい』

対話
?自分が何を考えているのかを、自分が語り終えたそのことばをつうじて知るということ(あらかじめ頭の中にできあがったフレーズをただ「複写」するような話をしている限り、自分がほんとうは何を考えているのかを私たちはしることができません)
?私たちが語っているとき、その語りを導くのは、聴き手の欲望である。

コミュニケーション
何かと何かを取り替えることです。そして、沈黙交易のところで明らかになったように、何かと何かを取り替えたいという欲望がもっとも亢進するのは、そこで取り替えられつつあるものの意味や価値がよくわからないとき。

対話
理解し合いたいけれど、理解に達するのはできるだけ先延ばしにしたい=相似て「君がいいたいことはわかった」といわれると、人間は不愉快になる。

コミュニケーション
常に誤解の余地があるように構造化されている

ラカン・・・「誤解の幅」「訂正への道」
私が皆さんに理解できないような仕方でお話しする場面がるのは、わざととは言いませんが、実は明白な意図があるのです。この誤解の幅によってこそ、皆さんは、私の言っていることについていけると思うと、言うことができるのです。つまり、皆さんは不確かであいまいな位置にとどまっておれるのです。そしてそれがかえって訂正への道を常に開いておいてくれるのです。

目の前にいる人に「気遣われている」と生きた心地がしてきて、「無視されている」とだんだん生命の炎が弱弱しくなる。

文章を先へと進める力は、ことばが思いを満たさないという事実だ=言いたいことが言えないで、じたばたしている文章だから