するグローバリゼーション(鈴木謙介)

“反転”するグローバリゼーション

“反転”するグローバリゼーション

 読了。

 公共空間の市場化によってもたらされる、公共空間の私場化。

その帰結は、民主主義の徹底によって「誰がよき市民か」が認定され、

「よき市民」から排除された者が、「リスク」として算定される世界である。

 ここまでの議論の推移は、非常に分かりやすい。しかし、この後の議論で、

突然「アイデンティティー」が持ち出されるあたりから、話が錯綜してくる。

近年「アイデンティティー」の病が蔓延していることはよく聞く話だが、

それが「マルチチュード」の「連帯」とどういう関係があるのか?

 ここで、文化系トークラジオLifeの「友だち」をテーマにした回の議論を

参考にしてみよう。まず、のっけからこんなことを述べるのは誠に恐縮だが、

「参考にしよう」と言ってみたものの、これから述べることは、必ずしも

ラジオで議論されていたことではない。完全に私がラジオから受け取った

メッセージである。しかし後に明らかにするように、この「私的に受け取った

メッセージ」こそが、「マルチチュード」の「連帯」に密接に関わっている。

 「友だち」とは何であろうか?グローバリゼーションが進展する現在において

あらゆるものが「世界」との競争を余儀なくされる風潮の中にあって、

「友だち」もまた、グローバルに語られる素地が築かれつつある。

 具体的には、ネットの普及によって、今まで考えられなかったような

「遠方」の他者とつながることが可能になった。だが一方で、「社交」的な、

「高級」な人と人との繋がりも残っている。

 後者は言うまでもなく、「勝ち組」の「連帯」である。逆に、誤解を恐れずに

言えば、前者が「マルチチュード」の「連帯」である。もちろん、前者が

「勝ち組」のネットワークを支えていることは疑うべくもない。けれど、

「勝ち組」は常に、後者による「見せびらかし効果」によって、自らの

「勝ち組」としての権威を誇示しなければならないのに対し、前者による

ネットワークは、そうした「見せびらかし」を必要しない。

 このような形で「連帯」した「マルチチュード」は、「新しい友だち」の形

として肯定的に受け止められるだろうか?これが、私がここで問いたいことだ。

ネットによる繋がりは、自己充足的な「癒し」に終始してしまうことがある。

考えるにこれは、声を上げることの無力さを表しているように思う。いくら自分が

声を上げても、世の中を変えることはできない。だから、自分の声が届く範囲

の他者に癒されれば、それで満足だ。

 しかし、それで満足か?「友だち」の「連帯」が、「マルチチュード」の

可能性として考えられるとすれば(って、かなり無茶な読解であると自覚して

いるが)、「友だち」の「声」を肯定的に捉え、組織化していくような試みが

もっと盛り上がってもいいのではないか。

 その先駆的な試みとして、

生きさせろ! 難民化する若者たち

生きさせろ! 難民化する若者たち

 があるが、まだまだ始まったばかりだ。

 私も(?)「友だち」は全然いない方だが、それでもなんとか生きていこうと思え

るのは、仲俣さんがラジオで言っていたように、「友だち欲しけりゃラジオ聴け」

るからである。ラジオを聴いていると、自分と同じように、Lifeによって繋がって

いる他者が、全国各地に存在していて、自分は決して一人ではないことを実感

しているからである。

 ラジオによる繋がりに、「神」はいない。だが、その繋がりを信じられること

は、私にとって日々を生きる糧になっている。